嫌な予感はしたのだ。
 いや、嫌では無い。そんな事を言えば嘘になる。
 ああでも。神様仏様ベイブルース様。ボクに力を下さい。
 力でなくてもいい。勇気とか言葉とかとりあえずこの状況から抜けだせたらなんだって。

 だが。

「どうしたの。早くおいで、体冷めちゃうでしょ」

 目の前のトラブルメイカーはそんな事はお構いも無しに、子津を見てゆっくりと微笑むのだった。









Thanks Wassar.









 子津は必死に考えていた。
 ええと何だっけ。どうしてボクはこんな所にいるんだっけ。今は野球部の合宿中でここは伊豆の温泉で横にはキャプテンがいて、何でだ? どうして一緒にお湯に浸かっちゃったりしてるんだボクは!

「気持ちいいねえ」
「は…は、はい! そうっすね!」

 過剰反応する子津に、目をぱちくりさせて牛尾は笑った。

「今日おかしいよー、変な子津くん」
「そ、そっすかね。あはは」

 誰がそうさせてるんだ、誰が! 子津は顔で笑って心で泣いた。

 子津くんもどうだい、なんて言われてノコノコとフツー入るか? やっぱりキャプテンならこういう隠れ湯っぽいところに一人で静かに入ってそうだなーとか判ってたハズじゃないか。何でこういう時に限って自分もゆっくり浸かってみたいななんていつもは思わない事を思って温泉場を徘徊なんかしちゃったんだ。おかげでキャプテンに見付かっちゃって誘われるまま一緒の風呂に仲良く浸かってるし。何やってるんだ。大人しくあの時猿野くん達と風呂に入ってれば良かったんだ、ボール磨きをあとに回してでも!

「そう言えば」
「はっはい?」
「今日もボール磨きしてくれたよね」
「あ…はい」

 自分の思考途中と被ってしまって、子津は一瞬怒られるのかと錯覚してしまったが、牛尾ににっこりと微笑みかけられて目をぱちぱちとさせる。

「ありがとう」
「………いえ! 恐縮っす」

 牛尾はふふ、と笑って目を閉じて、そのまま首までゆったりと湯に浸かった。子津はというと、目の前の彼にすっかり見とれた。

 あー、好きだ。

 子津は目を細めた。「好きだ」体中がそう言ってるような気がする。ぎゅ、と拳を握り締めて、彼も傍の岩に凭れ掛かる。
 温泉は調度いいくらいに熱くて気持ちが良くて、立ち上る湯気と色んな虫の鳴く声がどことなく情緒があっていい。見上げてみたら空は満天の星空だ。

「ね、キャプテン、あれってオリオン座っすよね」
「んー? あ、本当だ。凄いね、良く見えるね」
「ホントっすねー」
「なんか北斗七星とか探したくなるねえ。今の時期って見えるのかな」
「さあ……。ボク実はオリオン座しか知らないんすけど」
「ははは、同じー。僕もそのくらいしか知らない」

 あー、なんかいいなあこういうの。胸のドキドキは納まらないけど、凄く凄く好きな人とこうやって一緒にいることって、勿体無いというか、どうしていいか判らないというか、とりあえず、幸せなんだろう。
 最初は慌ててしまったけど、要はボクが我慢すればいいだけの話だ。

 二人でゆっくりお湯に浸かって、他愛無い話をして、明日の練習に備える、それはとても大事な事で、そして容易い事に思えた。

「……いい気持ちー」

 目の前でゆっくり伸びをする彼の、顎から鎖骨にかけての線が、爪月に照らされて映える。

 綺麗だった。彼の他に何も見えなくなってしまうくらいに、瞳に映る彼が今の全てに思える。子津はぼうっとして、彼の仕草を、彼の呼吸を、瞬きの様を、時が止まったような体勢で見つめた。

 気が付けば、牛尾は子津に視線をやっていた。

「………。なに?」
「あっ、や、そのっ、何でもないっす」
「子津くん……耳まで、真っ赤だよ」
「……あ、いや……」

 慌てて俯いて縮こまっていると、牛尾はふうん? と言って、ゆっくりと近付いてきた。子津は焦った。あいにくすぐ後ろは岩に囲まれている。

「キャ……キャプテン……」
「なに、考えてるの?」

 途方もなく甘い囁きだった。相手の心境を判っている者にしか出来ないような、尋ね方だった。牛尾の肌が、子津の膝に触れる。子津は小さく息を詰めた。ざわざわと自分の中で大きくなってくる感情が判る。……ダメだ。

「……別に何も」
「嘘」

 牛尾は緩慢とした動きで子津に更に近付いた。子津は岩に体全体を押し付けるようにして仰け反ったが、牛尾の腕は、そのままするりと子津の首に回された。

「本当に、何も考えてない?」

 唇にかかる吐息、ひたと見つめられる瞳、上気した肌。手を少し伸ばせば、すぐに触れられる愛しい人。もう心臓の鼓動も自分の気持ちも、確実に筒抜けだろう。

 いつだってそうなのかもしれない。ボクの気持ちを判っているというより、キャプテンと同じことを思っているだけで。
 触れたい。その紅い唇の甘さを味わいたい。言葉も吐息も何もかも全部吸い込んで、全部自分のものにしてしまいたい。
 この人が、欲しいんだ。

「ねぇ? 子津くん」

 牛尾は甘く囁き、濡れた唇から紅い舌をちろりと見せた。その色が、濡れた光が、子津の脳内の導線をばちっと掻き切ったようだった。子津は体を起こして牛尾の腕を掴み、一気に抱き寄せた。反動で、は、と息を漏らした牛尾の、薄く開いた唇に噛み付く。牛尾の腕が先をねだるように子津の背中に回る。ずきずきと疼く下半身を押し付けると、体全体から火が吹くような熱を感じた。子津は自分の唇の下でとろける牛尾の舌を、夢中で吸い上げる。

 自分が何をしているか、ようやくはっきりし始めた。子津は深い呼吸を少しずつ吐き出して、ゆっくりと唇を離す。名残惜しそうに舌先を押し付ける牛尾に、息を吸い込み、ともすれば上ずってしまいそうな声を押し殺して囁いた。

「どうなっても……知らないっすよ」

 牛尾は頷く代わりに、子津の胸に顔を擦り寄せた。












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