誰が為のドレサージュ・2
「まあ、当然といえば当然です」
「判ってます……」
ベッドに寝かされ、体温計を銜えたエドワードの額にタオルと氷嚢を載せて、アルフォンスはどこか楽しそうだった。
「何かこないだの兄さんの気持ち判るなぁ」
「……何がよ」
「いや、何と言うか…世話出来るのが嬉しいというか。元気の無い兄さんも見てて楽しい」
「鬼かお前は」
「もちろん早く元気になって欲しいよ、当たり前でしょ。でも役得」
ふふ、とアルフォンスは笑って洗面器を持って立ち上がり、ドアの前まで進んで振り向いた。
「ねえ兄さん」
「何」
「キスなんかしなけりゃ良かった…とか思ってる?」
「おかゆたべたいー」
「ちょっと」
「はやくつくれー」
「今作ってるってば。答えてよ」
「質問の意味が判らない」
「……移るって判ってたでしょ?」
「移るとは限らんだろ」
「移ってるじゃないか」
「たまたまだ」
「……移ってもいい覚悟でキスしてくれたの?」
「してくれたとかゆーな。オレはお前に一度も同情なんてしてねぇ」
「じゃあ……何で……」
「あーすげーお前うざい。病人のワガママは聞けよ、とっとと行け」
アルフォンスは複雑に混ざった色の吐息を吐いた。
「………悪いけど、ボク期待してるから」
「……す〜……」
「何寝たふりしてんの?! ホントもうっ、……あ」
ドアの向こうの台所から、吹き零れの音がしてアルフォンスは慌てて部屋を出て行った。
「……………ヤバい。」
エドワードは、ぽつり。
「…何がヤバいのか判んねぇのがヤバい」
「食べさせて」
アルフォンスは粥の入った盆を持ったまま、十秒ほど固まった。エドワードはその反応を判っていたのかそうでないのか、ただだるいからだろうかじっとアルフォンスが動くのを待っていた。
アルフォンスは文字通り固まったままだ。
「……いや、お前、いい加減動けよ……」
エドワードがそう言うのに、アルフォンスは非常に苦い面持ちでベッドのサイドテーブルに乱暴に盆を置くと、深呼吸をしてスプーンで粥を掬い、今まで見たことのないような真剣な顔でエドワードに差し出し、半ば叫ぶように言った。
「はいどうぞ!」
「さんきゅ」
エドワードは体を起こした。本当にダルいのだ。口を開けて、ぱくりとスプーンを銜える。火傷するくらい熱くは無く、アルフォンスがわざわざ台所で冷まして持ってきたのは明白だった。本当に良く出来た弟だ、塩の加減もいいし、と咀嚼しながらエドワードは思う。また掬ってくれるだろうと疑いもせず口を開けると、アルフォンスはどうにも形容のし難い顔で固まっている。
「早くー。あーん」
「……………」
促されて震える手つきでゆるゆると粥を掬うと、エドワードの口元に持ってゆく。
ちろりとのぞく赤い舌、柔らかそうなくちびるがスプーンを包む。その緩やかな感覚がアルフォンスの指に伝わる。飲み込む時エドワードはかすかに瞼を伏せる。白い喉が上下する。
(………だだだだダメだホントにもう)
アルフォンスはあまりの感動と衝撃に身も心も打ちのめされていた。人にものを食べさせる、という行為がここまで官能的なものとは思わなかった。そうやってひとりでぐらぐらしていると、目の前の想い人は邪気も無く次を待って口を開ける。
「……兄さん」
「あ?」
「やらしいそれ。すごく」
エドワードはぱっと口を閉めた。
「あのなぁお前、何考えてんだ」
「ごめん。でもやらしい」
「やらしいのはお前だ! まったく」
「こっちのセリフなんだけど……」
「つーかもうじろじろ見んな。とっとと食わせろ」
一方的に恋心を抱いているだけの相手の性的な部分を見ることは、一般常識に照らし合わせればとてつもなく幸運なことだろうと思う。まずそういう状況になる確率が低いからだ。アルフォンスはエドワードに餌を与えながら余すことなく目の前の幸運な光景を見つめ続けた。ボクって幸せものだなあ、とアルフォンスは思う。普通に考えたら拷問なんだろうけど、間違いなくボクは幸せものだ。だから我慢しよう。色々。
「ごちそうさまー」
エドワードの舌がちろりと唇をなめる。こないだは、こないだはこの唇に触れたのだ。この、やわらかい唇に。信じられない。夢のようだけど夢ではない。アルフォンスは甘い溜息をもらした。
「兄さんを食べてしまいたい………」
「逐一妄想を声に出す癖をどうにかしろお前」
エドワードは半目になってアルフォンスを睨み付け(その表情だけでアルフォンスには腰に来てしまったが)、ベッドに潜り込んだ。
何となく眠れなくてエドワードは目を開けた。大体アルフォンスが傍にいないのが悪い。洗い物に立って、それっきりこの部屋に顔も覗かせない。実はそれほど時間は経っていないのだがエドワードは酷く落ち着かない。
「アールー」
「……はーい」
しばらくして足音がして、ドアが開けられた。良く聞こえたなと思いながら、アルフォンスの姿を見てほっとする。
「どうかした?」
「別に。何やってたんだ?」
「え? 洗い物して、台所で本読みかけたとこだけど」
「何でここで読まねぇんだよ」
「傍にいてもいいの?」
「病人を放っとくんじゃねぇよ」
「放っておくって」
アルフォンスはそう言って、本を取りに行って帰ってきて、ドアを閉め、エドワードの寝ているベッドの横に椅子を持ってきて座った。
「ねえ兄さん、さっきから五分も経ってないんだけどね?」
「そのまま放っとく気だったろ」
「まさか。他の人ならいざ知らず、このボクが?」
何を言っているんだどうしたのと言わんばかりに問いかける弟の姿に、エドワードは頭を巡らせ、そういやそうだなと思う。
「ボクは兄さんのことが大好きだからねー。」
「……ああ、うん。判った」
「熱があるんだもんね。淋しくなるよね」
「……あー。そうか。そうかも」
非常に素直な兄の姿に、アルフォンスは今すぐ窓を開けて体中から兄さん可愛い可愛い可愛すぎるーと絶叫しまくりたくなった。近所迷惑だからしないけれども。
「こないだは兄さんがボクのワガママ聞いてくれたし、今回はボクがワガママ聞いたげる。何でも言って」
アルフォンスは幸せそうにその言葉を口に上らせた。この兄のことだから大して困るようなことを望んだりしないだろう。せいぜいくっつくなとか可愛いとか言うなとかそれくらいだ。いやまあそれを望まれるのに困らないこともないがそれはもう仕方が無い。
兄のワガママを聞く。何でも。
まるでそれは恋人同士のようではないか。
アルフォンスは自分の考えに知らず頬が緩んでしまう。
(寝ている兄さんも可愛い)
熱があるので頬が赤く、瞳が潤んでいるのも普段からのきつい色気にますます拍車が掛かっている。まさか病人を押し倒すほど鬼でもないが、じっと見つめていればそんな自信もなくなってくる。そんなレベルだった。まあだからこそずっと傍にいるということは避けて、時々様子を見るために部屋に入るだけにしようと先ほどは思っていたのだ。なんでこのひとはこんなに綺麗なのかなあ、とアルフォンスは悩ましく溜息をついた。
エドワードはぼうっと天井を見つめている。ワガママを聞くと言ったから何でも言ってくるだろう、それならやめろと言われるまで見つめていようとアルフォンスは降って湧いた幸福を甘受していた。……のだが。
エドワードがこちらを向いた。
「アル」
「何?」
エドワードがもぞもぞと布団から手を出して伸ばした。何だろうと思ってみていると。
「手」
「へ?」
「手」
エドワードは物を掴む仕草をしている。アルフォンスはまさかと思ったが、一応思ったことをしてみる。右手でエドワードの手のひらを握り込んだ。
「……あー。お前つめたいな…」
「に、兄さんが熱あるからだよ……」
アルフォンスはどきまぎした。久しぶりに触れる兄の手は非常に熱い。暖かいどころか熱い。兄の手は白くてすべすべで、口に含んだらどれほど甘美な味がするだろうと考えてアルフォンスは眩暈がした。エドワードの行動は先ほどから不可解な行動が多いが、ほんとのほんとに今日はラッキー続きだ頑張れ自分、とアルフォンスは自分を叱咤した。
そういえば本当に久しぶりなのだ、兄に触れるのは。人体錬成をした直後は色々触ったり触られたりしたし、そのあとももちろん鎧のからだであった時から告白した状況が続いていて兄は勝手にしろというものだからこちらも必死になって落とそうと、手のひらにキスをしかけてみたり抱き締めてみたりということもしてきた。だが最近は本当に我慢が効かなくなる自分を自覚してきているので、自分からはもうずっと自粛していることを思い出したのだ。
兄が本当に望んでくれるまで触れないでおこうと。
エドワードは、アルフォンスの手のひらを掴んで、視線をあわせた。アルフォンスを見て微笑む。幸福そうな顔をしている。……幸せそうだ。
ボクの手を触って、幸せなの、兄さん?
アルフォンスは泣きたくなった。まただ。また自分はこうやって、恋と愛を取り違えてしまうのだ。
感動と困惑にアルフォンスがぐるぐるしていると、エドワードがそろそろと手を引っ張ってきた。え、とアルフォンスが引っ張られるまま身を乗り出すと、ぴと、とエドワードの赤い頬に、自分の手の甲が押し付けられる。エドワードはほう、と息を吐いた。
「つめたくて気持ちいー……」
もうどきまぎどどころの話ではない。何をするんだこの兄貴は。浅ましいほどに兄の感触を求めて、自分の右手に体中の感覚が急速に集まってくる。先ほどの穏やかな幸せ気分が吹っ飛んでしまって、アルフォンスはいよいよ持てる理性を総動員して自分を抑える羽目になった。
「に、兄さん、顔熱いなら濡れタオルの方が」
「……お前の手がいい……」
小さく呟くエドワードに、アルフォンスの胸がどっかんと爆発した。
ここまでされると幸運どころではない。ただの拷問だ。
「に、兄さん………」
エドワードは答えない。目を瞑って動かずアルフォンスを感じている。
「に、兄さんてば。どうしたのほんと」
「だって気持ちいいからよ」
「あのね……」
「………………」
「ボク今すっごく変な気持ちになっちゃってるからね。怒らないでね? これだけはどうしようもないからね」
「うん」
「うんって……あのね……」
アルフォンスははーっと息を吐いた。手を引っ張られているせいで中途半端な体勢が辛く、アルフォンスは椅子から腰を上げてベッドの脇に座り込んだ。愛しい人の顔を見つめながら、アルフォンスはつい本音を呟く。
「……兄さん……ほんと、いつ襲われても知らないよ……」
エドワードが、ぼうっとしていた視線をアルフォンスにしっかりとあわせた。アルフォンスは一瞬どきりとした。
「襲って欲しい……つったら、どうする?」
「へ?」
アルフォンスは時が止まったように動かない。目の前の兄の顔を凝視しているようにも見えるが実は何も見えていない。
あー、えー、今何て言った?
「なぁって」
「なぁって何……何?」
「お前どーすんのって」
「おそ…………襲って欲しい? …………襲って欲しいって言った??」
「言った」
「…………………」
アルフォンスが目を見開いて唇を震わせて何か非常に言いたそうにしているのを見て、エドワードは今度ははっきりと言った。
「今なら襲っても許す」
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