「ぼくはねえ、わが天使よ、きみの顔を見ていればいるほど、いくら崇拝してもしきれないような気がするよ」
―――カザノヴァ回想録第二巻より



















『クピードーの矢を放て』




















 それは何の変哲もないとある日のことだった。
 アルフォンス・エルリックは写本用に掛けた眼鏡を押し上げて、向こうの部屋のテーブルの横で冷蔵庫からガス入りミネラルウォーターを呷る自分の兄を見つめた。
 今日は何故か機嫌が悪い、と思う。顔で判る。兄、エドワード・エルリックの顔にそう書いてある。エドワードは自分の実の兄ではあるが、自分にとって世界で一番いとしいひとであったので、アルフォンスは何らかの策を講じるべきであろうが、彼は焦らなかった。自分の兄は少々性質が悪い。何だかよく判らないことでも怒る。全般的に常に理不尽である。そういうことでまず見極めが必要なのだ。あれやこれやご機嫌伺いもどうかと思う。
 そもそもアルフォンスは兄のそういった自分に理解の出来ないところをも愛していたので、振り回されること自体が好きだ。兄に関係するすべてのことがアルフォンスにとって心が躍る。兄さんなら何でもいい、というのがアルフォンスにとっての極論。
 そういうわけでアルフォンスは兄の機嫌が悪いということを知りながら、何故か浮き浮きした心持ちでエドワードを眺め続けていた。当たり前のように机の上の写本は進まない。
 水のボトルを冷蔵庫に仕舞ったエドワードがこちらを向いた。顔が怖い。怖いというのは一般論で、アルフォンスにとっては何でも新鮮に見える。怖かろうが可愛かろうが負にもならない。アルフォンスはどきどきしながら彼を見つめた。エドワードがこちらに向かって歩いてくる。アルフォンスは普通に声をかけた。
「兄さん機嫌悪い?」
「………………」
 エドワードは何も答えずに椅子に座ったアルフォンスを見下ろした。それから腕組みをして、何をやっているんだ、と呟いた。
「面白そうな論文メモってるの。兄さんの方の写本終わった?」
「アルフォンス」
「はい」
「お前ちょっと眼鏡取れ。そんでちょっとこっちこい」
 エドワードは腕組みをしたまま自分の肩の後ろを指差した。そこにはソファーがある。アルフォンスは別に、教師に呼び出された生徒のような心持ちにはならず、素直に眼鏡をはずして机に置き、椅子から立ち上がった。
 それはそれは機嫌の悪そうな顔をしているが、アルフォンスは何となく悪いことではないような気がした。理由を知りたいと思うし、エドワードがどんな行動を取るのかも見たい。エドワードという人間はいつもアルフォンスの胸を高鳴らせてくれる。
 他の人間にはやはり理解出来ないような感情でアルフォンスはエドワードについてゆく。エドワードは何の前触れもなく振り返った。何だろう、と思う間もなくぐいと肩を掴まれて、どさ、と力いっぱいソファに押し倒される。
「う、うわっ…?!」
「アル」
「へ…いきなり何? どしたの?」
 目をぱちくりさせて問うアルフォンスの頭の両脇に手をついて、エドワードは無言で覆い被さった。見上げる兄の顔は艶やかな金髪が顔を覆ってしまったせいで陰になり、何故か感情を感じさせない表情と声音で、やけに精悍に口を開く。
「悪いがオレは欲求不満だ」
「………はい?」
「オレの中でお前が不足してんだよ」
 ………ああ。
 エドワードのこの機嫌の悪さと、抑えた物言いで、アルフォンスはようやく思い当たった。
 そう言えば最近スキンシップがない。
 エドワードは普段そういう部分をまったく見せないが、時折抱き締めたり頭を撫でたりといったことを好んでする。昔は単に親しい者への普通の愛撫ということで別に問題はなかったのだが、今ではそういうわけには行かなくなった。アルフォンスがエドワードに恋をしてしまったからだ。
 その事実が発覚してからは兄は暗黙の了解で、アルフォンスに気を使ってか自分に気を使ってか、過剰なスキンシップを避けている。そしてたまにエドワードの我慢が効かなくなると、こうして弟にそれを求めてくる(我慢をしているかどうかは甚だ疑問だ。何せ彼はかなり気分屋であるので)。
 エドワードがそれを求めるのは相手がアルフォンスだからだ。誰でもいいというわけではない。アルフォンスはそれを判っているし、それ以上に自分に都合のいいように考える恋愛バカでもない。まあ、たまに、ほんの少しは、考えることもあるけれど。
 兄は、純粋に、自分を大事に思ってくれている。恋をしていると、打ち明けても態度は大して変わらなかったのだ。兄は自分を受け止めてくれた。自分は兄にとって、大事な、たったひとりの弟。
 それで、十分。
 しかし、だからこそアルフォンスはそのたびに、自分の中に常時潜む世界で一番愛しい者への情欲を文字通り必死で、歯を食いしばりながら、押さえ込まなければならない。
 ああ、あの拷問がまた来たのか。
「そういうこと………」
 一気に理解と覚悟をその顔に浮かべた聡明な弟を見て、エドワードは相変わらず座った目で言い渡す。
「オレはこれからお前に色々するが、お前からは一切何もするな。可愛いとか綺麗とか言えば殴る。オレの背中に腕を回したら殴る。キスの最中舌を入れてきたら殴る」
「………………」
 キスまでするつもりかこのバカ兄貴。
「……………あんたは鬼ですか…………」
「その鬼にゾッコンメロメロな馬鹿野郎は誰だ?」
「……ボクです。貴方の弟、アルフォンス・エルリックです……」
 エドワードが金水晶の瞳を眇めると、その表情でアルフォンスは一気に魔法にかかる。
「では、オレの言うことは絶対だ」
「はい………」
 エドワードのかたちのいいくちびるがなめらかに動くさまを、アルフォンスは魂を抜かれたように恍惚と見つめる。
 ……ああ、よっぽど惚れてるんだボク。
 判ってたけど。いやもうほんとに。嫌になるくらい判ってるんだけどさ!
 毎回ことあるごとに、アルフォンスは思い知らされてしまうのであった。
 エドワードはようやく、に、と笑って体を倒す。右手をアルフォンスの首に回し、左手で額にかかる髪をかき上げた。そっと額に唇を落とし、それから背とソファの間に手を差し込んでぎゅうと抱き締める。体をぴったりとアルフォンスと密着させるように。エドワードは深い息をついて、しばらく動かなかった。
「………………」
「………………」
 ひとつにまとめただけで結っていないエドワードの絹糸の金髪が、さらり、と首元にかかる。触ってみたいという欲求を持たずにいられない柔らかさ。石膏の肌は冷たく滑らかで、吐息だけが甘い熱を持つ。ふ、と鼻に薫るエドワードの体臭は独特で、香水の類を嫌う彼は何もつけないのにどこか果実のように馨しい。アルフォンスでなくとも、究極の媚薬に成り代わるほどに、アルフォンスにとっては、この世で唯一、自分を高みに押し上げ、恍惚とさせるもの。他のものをアルフォンスは知らない。エドワードの心地よい重みがじんわり、じんわりと体中に染み渡ってゆく。
「……なあ、お前、体硬すぎ」
「…………………」
「聞いてんの?」
「き、聞いてる。聞いて、ます。………っっ」
 返事をした途端に鼓動と息遣いと言葉の振動が伝わり、アルフォンスは固まって脂汗を流している。ぎり、と唇を噛み締めながら宙を睨み、あまり胸部で息をしないように細く長く呼吸をしている。エドワードはそれを判っているのか判っていないのか、満足そうにアルフォンスの体を撫で、それから頬と耳をアルフォンスの胸にくっつけるようにしてしばらくじっとしている。アルフォンスは動かない。息を吸うと自分の体が動き、エドワードの体温をますます感じてしまうためにもう息もまともに出来ない。

 抱き締めたい。
 抱き締めたい。
 今すぐこの柔らかくあたたかな体をこの手で包み込んでしまいたい。そのまま錠を掛けて世界のあらゆるものから切り離して、ボクとこの愛しくてたまらない人のふたりだけしかいないようにしてしまいたい。
 好きだと、愛していると、あなただけなんだと喉が嗄れるほど叫んで抱き締めて、この人の透き通る心に消えることのない刻印を刻み込んでしまいたい。

 エドワードはアルフォンスの胸に耳を当てたまま笑っている。
「すげー音」
「……………………き、……が二匹、羊…が…さんびき………」
「は?」
「ひつじがよんひき、ひつじがごひき」
 アルフォンスはもはや真っ赤を通り越して紫がかった顔色で呟いている。
「お前さ、悪いけどほんとギャグだなソレ」
「ギャグでいい。もーギャグでいいです何だっていい……ボクは死ぬ……いっそ死なせて……」
「絶対ヤだ」
「助けて………」
「そんなに嫌かよ」
「嫌ってゆーか、嫌ってゆーか、もうそういう状況じゃない……えーとアームストロング少佐の筋肉を事細かに思い浮かべてみるとですね……」
「何ゆってんだオマエ……」
「え? いやもうそんなことでも思ってなきゃ今すぐ抜き差しならない事態に…いやもうなってんけど少しでもほら……あああああ兄さんあんまり動か……う、う、う、動かないで………ッッ」
「動くなっつってもなー。無理だろそれ」
 そう言いながらエドワードはアルフォンスの胸や腕を触って品定めを始めた。
「お前なんでこんなしっかり筋肉つくんだろなー。オレあんまつかねー体質なんかなー師匠にも言われたな。結構筋トレやってんのになー。むかつくこの胸板とか。うわ何この力こぶ。ほんっとむかつく」
 好きとか嫌いとか以前に、だ。
 エドワードのこの体は、触れたものしか判らないが(触れなくとも見ただけで判るが、実際触れると痛感する)、どうしようもなく官能的な部分をかき立てられるところがある。それを無視するわけではなく、もちろんそういうところも含めて愛しているのだが、もはやアルフォンスが自負する精神的な愛をかなぐり捨ててそれだけを求めることすら出来てしまえるほど、後戻りが効かないところまで来ていた。
 そう、アルフォンスは自分が持つ兄への愛を、誇りに思えるくらい純粋に守っていた。とにかく昔は色々あったのだ。禁忌を破ったり人を死なせてしまったり鎧になってしまったり(!)、普通の兄弟では到底体験できないようなことをたくさんしてきて、その中で、自分の兄はどういうひとか、自分はどれだけ兄に愛されているか知ってしまった。
 後には、戻れない。自分は兄を愛してしまった。兄弟の深い感情でもあるし、それ以上にも。
 同性の兄に対して、雄としての情欲を抱いてしまえるほどに。

 エドワードの体温が触れるたびに壮絶な反応を起こしてしまって、マグマのように沸騰する欲望を鉄蓋の理性で押し留めながら、アルフォンスはもはや言わずにはいられなかった。
「兄さんを押さえつけるだけの力はついてる」
 脂汗を流しながら、唇の端を吊り上げる。
「兄さんにその気はないのは判ってる。……だから、もう、やめて、こんなこと。自分がどうなるか、本当に判らない。ボクは嫌がる兄さんを無理矢理抱こうと思えばいつでも出来る。判ったでしょ触ってみて」
 エドワードはアルフォンスの上に乗ったまま、ほんの少しの間アルフォンスの顔を見つめてから、微笑んだ。言っちゃった言っちゃったと内心滝のように汗を流すアルフォンスの、その耳元に近付いてエドワードは。
「オレ、お前のこと信じてるから」
「…………………!!!!」
 ぞくぞくぞくぅっ、とアルフォンスの背筋に電流が走った。そのまましばらく雷に打たれたようにぴくりともしない。できないのであった。アルフォンスめった打ち。
 エドワードはそのまま、アルフォンスの耳に酷く甘い囁きを流し込んだ。
「オレの嫌がることは絶対しねぇんだろ? ん?」
「………………………し、しま……しませ……しません……愛して…ま…す…」
 自分の頭の上のソファーベッドの腕掛けに、思い切り皺が寄るまでに握り締めているアルフォンスの手は血の気がなく真っ白になっている。カタカタと震えるアルフォンスにエドワードは満足そうに声を上げて笑い、ぎゅうと抱き締めた。
「オレも愛してるぜー。可愛い可愛いアルフォンスー。ああ、オレって幸せもの」
 その無邪気さがどこからくるのか判らない……。猫のようにじゃれつくエドワードに顔面をストロベリー色にさせながら、もはやうっすらと意識のなくなりかけている頭でアルフォンスの思考はひとつのところに達した。

 これは、もう、ダメだ。

 アルフォンスは息を吸い込んで、体全体に力を込めると、ソファを握り締めていた手を離した。一瞬その動きに身構えたエドワードを掠めて、自分の頭の上で思い切り両手を打ち合わせる。ぱぁん、という音と共に眩い錬成反応の光が一瞬辺りを照らし、エドワードはうおっ、と言って仰け反った。しゅぅぅ、とアルフォンスの頭の上で音がする。
「なんだおまえ……何やってんだそれ」
「見りゃ判るでしょ! 手錠だよ!」
 半切れ状態で叫ぶアルフォンスの両腕は頭の上で交差していて、二の腕から手の先にかけて、何をどう錬成したのかソファと一体化してがんじがらめになっている。錬成に必要な両手もこれでは使えない。
「兄さんが許すまでボクは再錬成も出来ない。どうぞ好きにして。ボクは何もしないっていうか、出来ないから」
 静かにそう言って顔を横に向けて目を瞑るアルフォンスの俎板の鯉状態を、エドワードはしばし無言で見下ろした。
「判ってる。兄さんが普通のスキンシップも出来なくなって寂しいのはボクのせいだ。兄さんが満足するまでボクに触っていい」
「……………………」
 ぴったり触れた(特に足と腰!)エドワードの体温は相変わらずアルフォンスの情欲をごうごうと沸騰させ続けていて、ああもうお願い早く済んでかみさまほとけさまー死ぬから死ぬからまじでー、と悶々としながら、エドワードが一向にその状態から何も行動を起こさないのを不審に重い、そっと薄目を開けてみると。
 エドワードは何ともいえない顔でアルフォンスを見ている。
「何だよ。どしたのさ」
「…………………」
「もう満足したの?」
「…………いや」
 エドワードが腕組みをして、天井を見上げた。それから、アルフォンスを見下ろして短くためいきをついた。
「……なに? 何なの? 喋るかボクの上からどくかどっちかにして欲しいんだけど」
 エドワードはうーんと言って、首を捻ったり、目を瞑ったりして言った。
「困った」
「何が」
「好きだなーって思って」
 アルフォンスの胸が、どきんと飛び跳ねた。エドワードは冗談を言っている顔ではなかった。
「…………………なにが?」
「お前がだよ」
「誰が?」
「だからオレが。…………いっそガバッと来てくれたら、それをきっかけにきちんとお前のことフッてやれるかって、次の恋愛へ背中突き飛ばしてやれるかとか思うんだけど、こんなことされたら…………」
 アルフォンスが理解できかねるような表情をしているその顔に手を伸ばし、両手で挟みこんで。
「ますます好きになっちまう。……お前のこと、手放せねぇなぁ……」
 エドワードはまつげをそっと震わせて、笑った。







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