嘘にオヤスミ、上の空










 今更ながらのことで大変申し訳ないのだが、オレは最近ようやくこの感覚が「気持ちが良い」ということなのだと理解した。
 頭が真っ白になり、体中が燃えるように熱くなって、何にも考えられなくなり、とりあえずこの「上」の感覚を得られないとこのどうしようもない状態から抜け出せないということだけをオレは知っていたのだが。
 オレがそういうと、アルは一瞬絶句して、それから良かった、と搾り出すような声で言った。あれは多分、相当動揺している。
 アルはそれをオレが知っていると思っていたのだろう。ショックなはずだ。喜んでもらえていると思っていたのにそれは自分だけだったなんて酷い話だ。アルはオレを傷付けていたと思って自分で傷付いている。オレは別に傷付いちゃいないのだが。
 オレにそういうことをしているのは弟だ。オレのたった一人の弟だ。傷付く傷付かないの話はぶっちゃけどうでもいい。アルはオレの弟。一緒にいる。ずっとだ。それが大事なのだ。
「……兄さん……あのね、もっと、とか、その奥、とか、思ったことない?」
「毎回思っているような気もするな。覚えてねー」
「それが、気持ちいいってことなんだけど……」
「うーん。そうなんだろうなぁ。キッツイなぁそれは」
「……………キッツイですか…………」
「キッツイです」
「や…………や…………やめ……た方が……いいですか…………?」
「泣きそうな顔すんなよ。無理すんな。いいよ別に。オレは別に死にゃしねーし、最中はそりゃツライし終わったあともツライけど大分慣れたよ。いーよ今更」
 アルは本当に泣きそうな顔をして(これは他のヤツが見ても判るってなくらいの顔してる)物凄く落ち込んでいる。オレのセリフなんてほとんど聞いちゃいねえ。というか聞いてもっと落ち込んでいる。
「無理すんな……って何さ……」
 オレは苦笑した。突っ込まれて初めてオレも思った。
「いやなんつうの? やめた方がいいかってお前、聞いてる方が無理してんなーと思って」
「………………ごめん、なさい………………」
「いーよもう。ったく、どっちが気ィ使ってんのか判んねーな」
「……………………」
 オレは読んでいた本を閉じて他の本に手を伸ばした。アルは俯いて黙っている。
「…………………兄さん」
「あん」
「兄さんが好きです」
「…………。判ってるよ」
「大好きです」
「判ってる」
「ごめんなさい…………」
 好き。大好き。ごめんなさい。この言葉を、アルはどんな思いで言っているのだろう。オレがそれに思いを馳せられるくらいに、アルのこの言葉は必死だ。好きだと、それだけの言葉を、どれほどの勇気をもって言っているのだろう。
「大好きです」
「お前、それをオレに強要してんじゃねえんだよな?」
「うん。兄さんがこうやって、聞いてくれるだけでいい」
 オレが笑うと、アルは戸惑ってオレを見る。嘘付き。嘘の下手なヤツ。オレは手に取った本を開いた。アルはがしゃん、とオレの方に向かって少し動いた。
「に、兄さん」
「はい」
 オレは上の空で返事をする。
「兄さんを、抱き締めたいです」
「……………どーぞ」
 一瞬の逡巡後、アルはがしゃんがしゃんと動いてこちらに来た。オレはまだ本を読んでいる。アルがオレの肩に手をかけたので、オレは本を閉じて後ろの机に置いた。
 アルがオレを抱き締める。がしゃがしゃという音が奇妙にリアルに聞こえる。何だか神聖な音だ。これがアルだ。アル以外の何者でもない。オレは目を瞑った。オレはアルの背に腕を回さない。つめたいアルの体にただ寄り添う。
「こんな体にしちまってごめんな」
「言わないで……こんな時にそんなこと言わないで。それとこれとは関係ない。殴るよバカ」
「そこまで言うなよ………」
「兄さん……違うよね? 許してもらいたいから抱かれてるなんて言わないよね?」
「言わねーよ、そっちこそ殴られっぞ。ばかかお前、泣きそうな声しやがって……」
 アルは震えている。どういうからだのつくりしてんだろ。変なの。オレが錬成した大事な魂は、オレを抱いて、大きな図体で、震えている。オレの弟。アル。
「アル」
「はい」
「オレはお前の兄ちゃんだ」
「…はい」
「兄ちゃんの命令を聞きなさい」
「な、何?」
「今日は一緒に寝なさい」
「へ?」
「返事ははいですよアルフォンス君」
「はっはい」
 アルは抱き締めていた腕を咄嗟に放して何故か直立不動で答えた。オレはよろしいと笑って言った。
 勝手に好きになって、勝手に傷付いて、勝手に傷付けて。アルは多分、そういう意味ではこの世界で一番傷付いている。オレはそんなことをまったく無関係に、抱いてやるのだ。オレはお兄ちゃんなのだ。アルのたったひとりのお兄ちゃんなのだ。こいつを慰めてやるのはオレの役目だ。そうなった経緯や周りのことなんかはどうでもいい。オレに出来ることなんてこれくらいしかないし、オレにしか出来ないことなのだ。まったく面倒だ。
 でも悪くない。
「アル」
「はい」
「オレが好きか?」
「大好きです」
 間髪入れず返すアルに、オレは思わず笑った。アルは一瞬怯んだが、構わず言った。
「大好きです」
「判ったよ」
「大好きだから」
「判ったっつーの。ヤケクソか?」
「違うよ。ほんとに大好き。ごめんなさい」
「ごめんはいらねえ」
「…………ごめん」
 オレは溜息をついて振り返りざま、足を思い切り振り上げてアルの腹を蹴り倒した。
「う、うわっ」
 がしゃあん、がしゃ、ごろん。ごろごろごろ。最後のは棚の上の花瓶が床に落ちて転がった音だ。幸い生花など入っていなかった。部屋に埃がもうもうと舞う。
「な、な」
 アルが慌てて身を起こそうとするのを、オレは体全体で乗り上げ、押し倒し、傍のベッドの毛布を取り上げてオレごとアルにばさり、と被せた。
「寝る」
「は?!……なに?このまま?!」
「お前は判らんかも知れんがお前のこの部分は気持ちがいい」
 オレはにやりと笑ってアルの胸の斜めになった部分に体を倒した。肩の飾りが枕になる。寝る体勢だ。
「いやあの、ちょっと………」
「おやすみアル」
「………明日は8時でいいの?」
「ああ、着替えも置いて行く、明日もここに泊まるよ」
「朝ご飯は食堂? 駅のカフェ?」
「駅のホットドック。こないだの旨かった。中に熱々のチーズが入ってて……」
「また同じのばっかり………」
「………………」
「……兄さん?」
「…………」
 オレは黙って普通に息をした。寝息に聞こえるだろう。そしてアルはそれを寝息ととらない。判っていて黙るのだ。オレの嘘を嘘のままにさせるのだ。何もかもオレの思い通りで、思う壺で、小気味良いし、気に入らない。オレは本当に眠くなってくる。
「大好き」
「………………」
「好き好きだーい好き。大好き大好き」
「やめろ睡眠学習!」
 アルはふふふと笑った。オレも思わずつられて喉で笑った。





 柔らかい眠りの中、人の身体を取り戻したアルに、オレは今日みたいに飛び蹴りを食らわした夢を見た。