進化し続けるドレサージュ、君は一体どこへ行く?
エドワードがベッドの周りの大量の書物を、なるべく音を立てないように片付けているのを、アルフォンスはベッドに寝かされながら見つめた。
「ごめん…兄さん」
「いーって。この辺だけ邪魔になるしちょっとどかすぞ。…うわー、三日も没頭してたんかオレたち」
ぺたぺたと貼り付けられた走り書きのメモの日付を見て、エドワードが苦笑した。偶然に珍しい研究材料を見つけて、二人が関連する読書を始め出すともう止まらないのは昔からの習い性だった。
「ったく、熱があったんならそう言えよな」
「うん…つい面白くて…」
「まぁオレも人のこと言えないけどさ。…お、沸騰してきたかな。ちょっと見てくるし」
「うん」
エドワードが台所に向かうのを、アルフォンスはぼんやりと見つめた。
兄が酷く優しい。
自分が熱を出したのは本当に久しぶりで、いつも兄はこうだったかなんて思い出せない。アルフォンスははっきりと居心地の悪さにも似た違和感を感じていた。
ただでさえ、兄には精神的な部分で常日頃迷惑をかけているというのに、自分が風邪を引くなど、それで兄に世話をしてもらうなどあってはならないことだと思う。自分が耐えられないという意味でた。
だからアルフォンスは兄の柔らかな態度に戸惑う。こんな兄は知らない。迷惑をかけているのに、自分の看病をてきぱきとこなす様を見ていると何故か、ともすると兄は楽しんでいるのかもしれないと訳の判らないことを思うほどに。
楽しんでいる?
アルフォンスは眉を悲しみの形に潜めた。自分に元気がないと、精神的に、多分兄は解放されているのだろう。望みのない想いを兄に求め続けている毎日は、自分の想像以上に兄に負担になっているに決まっているのだ。
そこまで思って、アルフォンスはじわりと瞼に水が滲むのを感じた。
この気持ちは、抑えきれない。これ以上、兄さんに辛い思いをさせたくない。この気持ちは捨てることもぶつけることも出来ない。
どうすればいいのかちっとも判らない。どうして兄さんを好きになってしまったんだろう。どうして世界で一番大切な人に恋などしてしまったんだろう。自分だけが幸せなんて許せない。自分はどれだけ兄を想いながら、兄の苦しみを無視して生きているのだろう。
熱もあるのも相まって、アルフォンスは酷く落ち込んでいた。
「今、すげー旨いお粥作ってやっからな。それ食べて元気になれよ」
洗面器を持ってきて、アルフォンスの額に乗せられたタオルを交換するエドワードは、笑みを湛えている。
「兄さん、ごめんね」
「謝んな。謝るくらいなら早く風邪治せ」
「うん……」
エドワードはベッドのそばの椅子に座り、身を乗り出してアルフォンスを見つめた。アルフォンスは熱に浮かされた頭で、申し訳なさと先ほどの自分の悲しい考えとに苛まれて、泣き出しそうな顔をしている。それを知ってか知らずか、エドワードは手を伸ばし、アルフォンスの髪をそっと撫でた。
「……オレさ、今すげー嬉しいよ」
アルフォンスの体に、それは染み渡った。やわらかな、暖かなことば。アルフォンスの胸だけが苦しさに締め付けられる。兄の言う幸せを喜んでいる自分と、狂気のふちに追い詰められそうな予感と。
やっぱり、兄は嬉しそうだったんだ。やっぱり。やっぱりボクが兄さんを好きじゃない方が兄さんは楽になれるんだ。アルフォンスは脳を掻き毟られるほどの痛みに眩暈がした。だが、次に兄から発せられた言葉が、アルフォンスの頭の中を一瞬で真っ白にした。
「お前のワガママなんて聞ける機会、滅多にねえもんな」
エドワードは心の底から嬉しそうに言った。
「お前さ、普段オレに遠慮ばーっかして、オレに駄々捏ねるとか全然ねえじゃん。兄貴としてはそれは淋しいぞー? まぁお前の気持ちも判るけどな。でも今は別!ここはひとつ開き直ってここぞとばかりオレに迷惑をかけろ!」
アルフォンスはあっけに取られて、エドワードを見た。エドワードは微笑んだ。お母さんみたいに。天使みたいに。
「……ワガママ言え。全部、聞いてやっから」
………この人は。
アルフォンスの目から、涙が零れ落ちた。エドワードは目を見開いて、それから苦笑して、乾いたタオルでそれを拭ってやった。エドワードは何で泣いているのかを聞かなかったし、アルフォンスはただ涙が流れるまま、そうやっているしかなかった。
「……兄さん」
「ん?」
「どこにも行かないで」
「行かねえよ。ついててやる」
「ずっとだよ」
「ああ、ずっとだ…泣くなよバカ」
エドワードはタオルをアルフォンスの両目にぎゅうと押し当てた。
「よしよし。泣くな泣くな。お兄ちゃんがついてるぞー」
「………兄さ………」
とうとうアルフォンスはしゃくりあげて泣き出した。涙が溢れて止まらない。エドワードはタオルごと弟を抱き締めて、ゆっくりとあやす様に頭を撫でた。兄さん、兄さんと、アルフォンスはエドワードにしがみついて泣いていた。
どれだけ毎日そばにいても判らないことはある。
自分は幸せだと思っていた。兄もそれなりに幸せだと思っていた。
どうしてこんなに好きなんだろうと考えたことはあっても、どうしてこんなに好きになってしまったんだろうと考えることはなかった。
自分は一生兄から離れないだろう。兄は一生自分から離れないだろう。
それだけで、十分。
気付かされてしまった幸せは、もう元には戻れない。
アルフォンスはぱっちりと目を開けた。何だかとても幸せな、涙の出るほど幸せな夢を見た気がする。まだその余韻が体中のあちこちに残っていて、暖かい蒸気で包まれた部屋のベッドの上で、アルフォンスはぼんやりとそのことを考えた。がちゃりと音がして、エドワードが部屋に入ってきた。
「起きた? …どう? まだ頭痛い?」
アルフォンスはエドワードを見上げた。石膏の肌に柔らかな金の縁取り。神の造形のような瞳でアルフォンスを見つめるエドワードを、アルフォンスは心を奪われたかのように見つめた。
アルフォンスは腕を伸ばし、兄の手を取った。兄は不思議そうな顔をして、だが確かにアルフォンスのてのひらを握り返してくれた。
「兄さん……ほんとに兄さん?」
「あ?何言ってんだお前。まだ熱あんのか?」
握った手を片方の手でぽんぽんと叩く。その苦笑いが確かに自分の恋する人のもので、アルフォンスは自分の見ていた夢が夢でないことを知った。
「兄さん……ありがと、色々」
「いんや? 楽しかったしいいぜ。大人しいお前見てるのも」
わははと笑い飛ばす兄が愛しかった。本当に楽しかったのだろうが、自分を少しでも気を楽にさせようとして言っていることは明白で、アルフォンスは心にじんわり広がる暖かさを感じた。
「さっき計った時もほとんど平熱だったしな」
「うん、そうだね。鼻水も止まってるしもう完全回復だ」
「オレ様の看病のおかげだな〜」
「感謝してます。ホントにありがとう」
「うん。…まあ。どうでもいいけどそろそろ離せよ」
「やだ」
「やだってお前……」
「ワガママ、聞いてくれるんでしょ?」
一瞬、エドワードはうっと詰まった。
「わ…ワガママタイムは終わり!お前もう完全回復なんだろ?」
「あ、えーと、ごほんごほん!ごめん頭痛い!何か鼻水も出てきた!」
「みえみえの嘘ぶっこいてんじゃねー!!」
「てか兄さん離したらいいじゃん。ほら」
アルフォンスはやんわりと握った手を揺らした。エドワードがむすっとして呟く。
「……オレからは離さない。お前が離せ」
「は?意味不明。ボクはずっと離したくないんだけど」
「それはダメだ。離せ。」
「だから兄さんが振り解いたら簡単に離れるんだってば!」
「嫌なんだよお前の手をオレから離すのは!!」
二人ともその言葉でしばし沈黙した。アルフォンスは兄の手を握ったまま、今の台詞はどう取ったらいいんだろう……と久しく使わなかった頭をフル回転させていると。
目の前に影が下りた。え、と顔を上げると、兄の極細やかな白い頬が目前にあった。
「……………!!!!」
鼻先を掠めた熱い肌。吐息の熱が一瞬だけ頬に当たり、すぐに去っていった。視界に写るのは、きらめく金髪の残像。くちびるに、やわらかな、とてもやわらかな、甘く重い感触。
「……………な」
アルフォンスは握り締めていた手をすっかり離してしまっていた。その手をそろそろと唇に持って行き、震える指でそっと口を覆った。
「……これでホントにワガママタイム終了。お前がまた風邪引いたら看病してやる。それまでお預け」
アルフォンスは兄の言葉も何も頭に入ってこない状態で、ただ今の行為と感触がぐるぐると回っていた。
何コレ、いまのなに? え? こ、これって……これって……ちょっと待ってマジでなんですかこれ? えー?!
「聞いてんのか? もう終わりだっつってんの!」
エドワードの言葉がようやく耳に入って、アルフォンスははっと我に返った。
もう終わり? もう終わり? ぜ…………絶対に嫌だ!!!
アルフォンスは半ば無意識で叫んでいた。
「も、も、も、もっかい風邪引けばしてくれるの?!」
エドワードはゆっくり振り返って、悪魔の形相で唇の端を引き攣らせた。
「てめぇ……このオレ様の必死の看病を無駄にして、また風邪引いてやろうとか思ってんのかよ……?」
「……げ、いやあの、そんなこと」
あ、ヤバい。逆さの鱗に触った。とアルフォンスの興奮も一瞬で冷めるほどの、兄の形相。
「っざけんなよ、ああ?! てめぇンな真似しやがってみろ、もう二度とキスなんかしてやんねーからな!!!」
「……………………」
沈黙。エドワードすら押し黙った。
「………………はい……………判りました……………絶っっ対自分から風邪ひこうなんて思いません…………」
アルフォンスは呆然としながら、その言葉だけ必死に紡いだ。
「いや……あの……違……言い方間違っ」
「絶対絶対風邪ひこうとしません!!!絶対しないからね!!!」
エドワードは自分がどんな宣言を力いっぱいしてしまったかすっかり悟ってしまって、みるみるうちに首筋まで赤く染め上げた。
アルフォンスは思わず目を見開いて目の前の愛しいひとを見つめた。長いまつげが影を落とすほどの俯き加減、林檎色に染まる頬、シャツから覗く滑らかな鎖骨の形 、少し震えている赤い柔らかな小さなくちびる。
このひとはなんて綺麗なひとだろう。
「と、と、と、とりあえずそんなとこだ、じゃーなっ」
言い捨ててばたん!とドアを閉めて出て行くエドワードを、アルフォンスはしかし引き止めて抱き締めることは出来なかった。アルフォンスはベッドの上で固まっている。何故なら。
…………勃っちゃった…………。
自分はつくづく雄であると思う。そして間違いなく自分の実の兄に恋愛感情を持ってしまっていることを、再確認してしまった。ただ甘いだけの感情じゃない。毎晩思っていることを朝っぱらから思い知らされた。
ヤバい。立てない。別のところは立ってるけど………!!
情けなさに息を吐いて、アルフォンスはうっとりと唇に手をやった。
すごい。すごかった。ほんとに。くちびるって、こんなに、こんなに柔らかいものなんだ…マシュマロより柔らかくて、暖かくて、しっとりしててっ……ほんと、すごい……。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ」
アルフォンスが恋人の感触に余韻に浸っている頃、ドアの向こうのエドワードは。
「………まあ………あんなキスが出来るなら…たまには風邪引いてもらっても、いいかな」
無意識にくちびるに触れながら、更に頬を赤く染めて、うっすらと呟いたエドワードは、間違いなくアルフォンスに感化されてきている証なのかも知れなかった。