LESCAUT


いつものこと

「なあ真田」
「なんだい速水」
「オレは今すごく機嫌が悪い」
 呼んでおいてこちらを振り向きもせずにそう言った速水へ、真田は柔らかく言った。
「今すぐキミの手を引っ張ってベッドへ連れ込めってことかい?」
「分かってるんなら早くしろよ!」
 速水と真田は笑いながらお互いの服を引っ張り合った。


どうしてこうなった

 速水龍一と真田一機はお互いに、出会ってしまった理由は「運が悪かったから」だと思っている。
 その日速水は雑誌の撮影のエキストラの仕事で、そこへ大学の友人に誘われて一緒に来ていた真田に逢った。ただそれだけである。たまたま隣り合って、目が合って、あ、コイツは確か、と思った瞬間、お互いに相手が誰かはっきり分かってしまった。そのとき最初に声をかけたのは真田である。速水の方はもう何を喋ったか覚えていない。とにかく、相手を認識してしまった以上なにかしら会話をしなければ失礼だという一般常識を二人とも持っていたことが不幸だった。なにせ、声をかけてしまったことで今のふたりの関係があるもので。関係というのは無論プロボクサーとしてどうこうという話ではない。それ以前に二人とももうプロボクサーではない。速水は無名の俳優業をしているし、真田は医師の卵である。
 あの頃の速水はボクシングを辞めてそう時間が経っておらず、ボクシングの話題をなるべく避けていた。真田の方はというと既に吹っ切れていて、むしろ適度には触れ合っていたかったというのに、ボクシングを辞めてみれば自分の周りではまったく無縁だった。せいぜい深夜に自宅でテレビをつけるくらいである。そういうわけで真田はエキストラのバイト先で速水と目が合ったとき、見たことがある、そうだ速水龍一だ、と思い至った瞬間、思わず脊髄反射で声をかけてしまった。
 鳴り物入りでデビューし、顎を壊され引退を余儀なくされた速水である。戦績は決して悪くなかったが、ボクシングには後悔も未練もたっぷりあった。だがそれは速水の性格的に、絶対に外に知られてはならなかった。自分は精一杯やった、その結果が今だ。後悔も未練もない。そういう自分を演じると、必然的に真田との会話が弾んでしまい、この仕事が終わったらお茶でも、という至極自然な誘いにはノーと言えなかったのである。

 今でこそ真田は速水のそういうところを知りすぎるほど知っている。速水のそういうところを見るたびに、ああ、頑張っているな、と笑みを噛み殺すくらいには。だから、なんと言われようと、真田は速水に忠告する。
「キミはそとづらが良すぎる」
 こんな関係になってさえいなければ、速水は爽やかに笑って『そうでもないさ』と返していただろう。
「文句があんのか」
 それは初めて逢ったときには思いもしないほどのストレートな心情だ。出逢った頃は自分などむしろ速水の一番嫌いなタイプの人間で、死んだって本音など見せたくなかっただろうに。
 速水の横顔を、小憎らしそうに歪んだ唇を、真田は感慨深げに眺める。
「あるから言ってるんだ」
「偉そうに」
「ボクに誤解されてもいいのかい」
「今でも十分に誤解してるんじゃねえの?」
 お互いに、何が、とは言わない。含み笑いをしている速水へ苦笑を投げる。
「じゃあ、誤解しておくよ」
 真田が唐突に、速水のことをそういう意味でめちゃくちゃにしてやりたくなるのはこんな時だ。誰にも分からないように速水のうなじへ指を滑り込ませてやると、ひゃ、とあられもない声があがる。
「キミが常にボクにこうされたいって思ってる、ってね」
 音がするくらいの勢いで振り向いて、真田を睨み付けていた速水がしばらくしてニヤリと笑った。
「手癖の悪ィお医者さんめ。今夜はお望みどおりに触診させていただきますよ、ってか」
「フォローしようがないくらいに品がない……」
「オレのせいにすんな、オレの」
 真田は何度あの時のことを振り返っても、今の自分たちがこんな会話をしていることに心の底から驚くのだ。


ナチュラル・ボーン・ラバー

 終わったあと、速水はすぐベッドから降りて真田を振り返りもせずバスルームへ直行するのが常だったが、今日は違った。コンドームを括る作業をしている真田のほうへ足を無造作に投げ出し、ベッドサイドのミネラルウォーターを飲みつつ何か考え事をしている。真田がその視線に気付いた。
「……どうした……――ッ?!」
 言い終わらないうちに速水が勢いよく真田の腹へ拳をめり込ませた。何の前触れもない。真田は咄嗟のことにまったく防御ができず、体を折って片手で腹を押さえる。かろうじて手に持っていたものは落とさなかった。
「何するんだ!」
 速水は拳を戻して、殴らなかった方の手で持っていた水を呷った。無言である。真田は流石に顔を顰めた。
「おい、速水」
 速水はにやりと笑って、顎をそびやかす。
「お前と戦ってみたかった」
「…………は?」
「お前、オレと戦う前にベルト返上しちまっただろう」
 その言葉で、真田の頭の中でいろいろなことが駆け巡った。
 自分がジュニア・フェザー級王者であった頃、5度も防衛戦をして飽いていたとはいえ、さすがにすぐ下の位のボクサーの名前くらいは知っていた。のし上がってきたな、とは思っていたのだが、そう、そんなことよりも、自分はひとつ上の階級の王者、幕之内一歩との対戦を切望したのだ―――。
 こんな関係になる前はもちろん速水の気持ちなど考えてはいない。だがこうして二人きりで会うくらいになってからでも、その話は出なかった。お互いに意識的に出せなかったのだ。速水がどんな風に思って、どんな風に自分を見ていたかも、真田に想像出来ないことはない。だが。
 今の速水のボディブローは、殴り合う機会がなかったから今殴った、それだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。単なるいたずらで、ストレートな腹いせだ。その他に何の意味もない。
 真田は確信する。速水はそういう男だ。それほどまでに自分はもう速水のことを知ってしまっている。
 真田は、痛む腹の底から声を出した。
「だからって、このタイミングでしないでくれ」
「今が最高のタイミングだったんだよ」
「最悪だな」
 真田はため息をついて腹をさすり、それでも持っていたものを丁寧にティッシュペーパーで包んでゴミ箱に落とした。
「入らないならボクが先にシャワー浴びるよ」
「なあ」
 立ち上がった真田へ、速水が甘く呼びかける。
「怒んねえの」
「怒ってるのはキミじゃないのか」
「今更だろ」
「じゃあ殴るな」
「隙だらけだったんだぜ」
 真田は二度目のため息をつき、それからはもう無言で歩いて行った。後ろから、なあって、さなだー、という声は無視をする。とっととシャワーを浴びて、朝食を作らなくてはならない。

「キスしてやるから機嫌なおせよ」
 無言でテーブルについた真田に、速水は卵焼きを頬張りながら軽い調子で言った。
「キスで機嫌が直るって?」
 真田の機嫌などもうとっくに直っていた。機嫌が直りましたよというアピールをするのが面倒くさかっただけだ。もっと言うと速水は真田の機嫌を損ねてすらいない。真田は速水のすることにいちいちめくじらを立てていてもしょうがないと思っている節があるので。
「なおんねーの?」
「そういうことじゃない。キミは、ボクがキミにキスをしてもらったら機嫌が直ると思っているのかと聞いているんだ」
 きょと、と瞬きをして、茶碗を持ったまま速水は悪びれず言った。
「思ってる」
 ダメだこりゃ、と真田は思った。無論ダメなのは速水ではない。ですよねー、と思ってしまった自分のことだ。速水からのキスが欲しいわけでは決してないのに、自分はきっと、速水にキスをされたらどうでもよくなってしまうんだろう。速水のことが好きというわけでもないのに、だ。なぜだ。なぜなんだろう。
「お前ほんとオレのこと好きだよなあ」
 なにひとつ感慨の感じられない、さもどうでもいいといった口ぶりで速水が言う。もうそういうことでいい、それでいいです、真田は心の中でため息をついて味噌汁を啜った。


リング外のレトリック

「真田さん、オレね、真田さんの彼女にちょっと言いたいことあるんですよ」
 真田は喉の奥で声にならない呻き声をあげた。たまにはジムへ顔を出すかと帰宅途中に寄ってみたら無論大歓迎されて、そのあとの唐沢の、シャドーをしながらのこの発言だ。なんなんだ。彼女とは。誰にも何も言っていない。大体あれは彼女じゃない。というか彼氏でもないしそもそも恋人などでは決してない。どこからその情報が漏れた。そういうそぶりは見せないようにしてきたのに。ポーカーフェイスの裏で汗をだらだら流している真田を、そうと知らずに唐沢は無邪気に拗ねた顔をする。
「真田さんはオレらの真田さんなんだから、あんまりひとりじめしないで下さいって」
「ああ……うん?」
「もっとちょくちょく来て下さいよー、みんな寂しがってますよ。つぐみちゃんなんかとくに」
 いや、結構来てると思うが。それでなぜ彼女の話に? 普通に至る考えなのだろうか。ここは否定をするべきか?
 ぐるぐる考えていると、唐沢があかるく爆弾発言をする。
「ま、ラブラブなのはいいことだと思いますけどね」
「ラブラブじゃないぞ……」
 真田はようやくそれだけを言った。思わず言ってしまった。唐沢がきょとんとした顔をする。
「あれ、本当にいるんですか、彼女。カマをかけてみたんですけど」
 ボクはバカか! 真田は頭を抱えてうずくまりたいのをなんとか堪えた。動揺する真田に気付いているのか気付いていないのか唐沢が、
「ま、なんにせよラブラブじゃないんだったら別れるべきです。オレ、頼まれちゃったんですよね後輩に。真田先輩に彼女がいるのか聞いてきて下さいって」
 なるほどそういう……。真田はなんとか頭の中の体勢を持ち直して、腕組みをして言った。
「すまないが、彼女とかそういう気は今、ないんだ」
「今の彼女とは適当に付き合ってるんすか」
「……彼女じゃない」
 唐沢はシャドーの手をとめて、びっくりしたようにこちらを見た。
「真田さんらしくないっすね、なんか」
「……いや……それはボクが一番思っているというか……」
 唐沢は怪訝そうに真田に近付いて、声を落とした。
「あんまり、聞かない方がいいですか」
「そうだな……頼む……」
「なんか、力になれることあります?」
 真面目で、気の優しい唐沢だ。元同階級のボクサーを酒の勢いで押し倒して最後までやってしまって具合が良かったからそのまま付き合っているだなんてよく考えたら正気を疑われそうな話を、ついうっかり話してもいいかなとちらりとでも思ってしまった。危ない危ない。唐沢がさらに声を潜める。
「ひょっとして、相手が女の子じゃないとか」
 真田はもう完全に冷静を欠いてしまって、言葉を発することができなかった。ジムの活気がなくなっているとか、会長になんとなく元気がないとか、そういう細かいところまで気がつく彼を立派だと思いこそすれ、この野郎、なんて思うことなかったのに!
 黙ってしまった真田を見て、唐沢はさすがに口を噤んだ。
「すいません……あの……真田さんが言いやすいようにって……一番すごいのをぶっこんでみたんですけど……」
「お前の思いやりには頭が下がるよ、唐沢」
 もはやそれしか言えない。もうサンドバッグを借りようかなという気持ちになってきた。唐沢は何事か悟ったのかうんうんと頷きながら、真田の肩を叩いた。
「よっぽど綺麗で可愛いひとなんですね、もう聞きません」
「―――………ッッッ!!」
 唐沢よ。キミの戦績にひとつ、テクニカルノックアウト勝ちを付け加えておいてやる!


どっちもマーベラス

「こんなに……きもちーなんて……さなだ、おまえ、ほんっと……責任とれ……」
 喉を仰け反らせて、白い肌に汗を浮かべて、限りなく自分勝手なことをひどく甘えた声をして速水が言う。真田も呼吸を乱しながら速水の顔を覗き込む。
「それはこっちの台詞だ、速水。ボクだってキミがこんなに気持ちいいなんて知らなかった」
「なにそれエロい……」
「キミがね」
 ぐ、と更に深く腰を進めると、速水は今度こそあられもなく身悶えする。
「あ、あ、だめ、そこ……あー……も、ちょっと、ゆっくり」
「…………こうかい」
「んー……ん、んぅ……あー……イイ……あ、すご……」
 無意識なのだろう、両の手のひらで自分の髪の毛をゆるく掴んで、速水は快楽を素直になぞっている。すこし天然の入ったウェーブの短めの髪が、汗で濡れていつものより長めに感じる。うなじに張り付くところが特に。天然パーマの人って美容院に行く回数が少なくていいよな、とか、ものすごくどうでもいいことを考えていないとどうにもやりすごせないほどの、壮絶な速水の色気だ。普段からカッコつけたがりでクールに見せている彼が、自分の下でこんなにも素のままで乱れている。そうだ、そんなプライドの高い速水がだ、自分に向かってなんと言った? 『さなだ、スゴイ』……やめてくれ、ちょっと待ってくれ、落ち着いてくれ自分。何がすごいって、いや、今まで他人に言われたことがないわけではない。速水が言っているという事実に無性に興奮するのだ。あの速水が。
「あーイイ……イイ、真田ぁ……それ、いい……すごい」
「……何がすごいんだ」
「……え……」
 思わず聞いてしまった。速水はというと息を荒くしたまま頭に疑問符を浮かべている。それから急に唇を噛んで、なにごとか口籠った。
「……なに?」
「……うるせえ……聞いてんじゃねー」
 恥ずかしがっている。あの速水が、あからさまに恥ずかしがっている! 真田はとうとうシフトチェンジしてしまった自分を悟った。もーなんでもいいや、などと珍しく自棄だ。真田が腰の動きを止めると、速水が狼狽える。
「あ……なあ、とめんなよ」
「何がすごいんだ? 速水」
「は?」
 自分の空耳か、と一瞬の空白ののち、真田のその表情をまじまじと見つめて速水は悟った。
「何それ、……おまえ、……サカッてんのもしかして……? え?」
「そういうことだ。言うまで再開しない」
「はぁぁぁ?! なにそれお前そんな趣味あったの? 言葉責めだろこれ! うそだろお前、エロオヤジか?! もうそういうのいいからしてくれよ!」
「聞いているだけじゃないか、速水。別に他意はないんだぞ。……なあ、何が、どう、すごいんだ?」
 腹が立つほど穏やかに、そして有無を言わさぬ真田の物言いに、速水は信じられないような顔でうーうーと唸る。
「ありえねー……なんなのお前……」
 速水が腰を動かそうとすると、がっちりと捕えられて身動きが取れない。速水は涙目で、涙声だ。
「あ、も……、バカぁ……お、おまえの、……アレが、オレの、……すげえ、きもちいいとこ、ばっか、擦って、ヤベーの……すげえきもちいいから、すごいって言っちまうんだよ!! もう!! バカ!! 真田のバカ野郎!!」
 真田はちょっと真剣に、あ、今ボク死んでもいい、などと思った。目の前の速水は泣き腫らしたような目をしてとんでもなく可愛らしい表情で望みどおりの言葉を言ってくれて、それだけでも相当天国へ行けるというのに、速水は言いながら中身をきゅうきゅうと締め付けるので、真田は結構必死に理性を保つ必要があった。
「……な、なぁ、言っただろ、動いて、動いてくれよ、もぉ……っ、あ、あっあっ」
 我慢強かったのはむしろ速水の方だったな、と真田は理性の片隅で思いながら、猛獣になった気分で行為を再開した。
 次の日の朝、頭を抱えてベッドの脇に座ったまま立ち上がってこない真田を、速水はその日一日中弄って遊んだという。


コント・オン・ザ・シーツ

「なあ、噛みあと、つけてもいい?」
 ベッドの上で服を脱がしあっていた矢先のことだ。速水が真田のワイシャツを肩から落とそうとしたところでじっとその部分を見つめている。なにやら様子が変だと思っていたところで。
 真田は真面目に答えた。
「ダメだ」
「なんで」
「着替えたりするからだよ。更衣室はみんながいるからね」
「いいじゃん別に」
「良かないさ。見つかったらちょっとした騒ぎだ」
「あの真田に彼女が!って?」
「それだけじゃない。医学生をナメるな、歯型や跡の付き方からすぐに男性の可能性を挙げられるぞ」
 速水はにんまりと笑って、ふうん、と言った。それからかぱっと口を開け、勢いよく真田の肩に噛み付こうとする。真田はすんでのところで速水の顔の鼻から上の部分をてのひらでガードした(かれの顎には触れないのが真田の流儀である)。
「噛ませろ!」
「ダメだと言ったろう!」
「いいじゃねえか!」
「だからなんでいいんだ?!」
「面白ぇからだ!!」
「理不尽すぎる!」
「好きなクセに!!」
「何がだ?!」
「オレがだよ!!」
「それとこれとは話が別だ!!」
 急に速水の力が抜けた。元ボクサー同士、ほぼ手加減なしのぶつかり合いだったので体勢が崩れて、真田が速水を押し倒した形になる。当の速水はきょとんとした顔をしている。
「……なんだ?」
「いや……真田、お前、否定しねえのかと」
「……は?」
「好きなの? オレのこと」
 真田は一瞬、何を言っているんだと言おうとしてやめた。速水はからかうような口ぶりでは言っていない。ではこれは、答え方を間違うといけない部類の質問だ。
「……好きかどうかと言われれば、嫌いじゃないから抱いている」
 慎重に真田は答えた。
「どっちかってえと、好き?」
「……そうだね」
「もっかい言って?」
「…………好きだよ」
「……そうか」
 速水はちょっとだけ黙って、ななめ上の天井に視線だけをやって、それから唇の端を持ち上げた。鼻歌なんか歌いながら、真田が両脇についた腕から抜け出して、はだけたシャツのままごろごろと広いベッドを転がった。
「……なんなんだ」
「……ふふふ。いや、なんか、ちょっと、……ふふっ、そうか、真田、オレのことが好きか」
 背を向けているので速水の表情は分からないが、声は明らかに楽しそうだ。どう考えても「好き」と言わせたかったものへ、言わせられたのだろうが真田は意外にも焦りはしなかった。誘導の仕方が絶妙だ。どっちかと言うと?好き。もっかい言って。好き。これでは自分は逃げることが出来る。言葉の綾という余裕がある。
「いや〜いいね、悪い気がしないね」
「……言わせてもらうが、好きじゃなかったらなんだと思ってたんだ。好きでもなんでもないのにキミのことを好き勝手にしてたっていうのか」
「さすがにそこまでは思わねえけど。けどよ、初めて聞いたしそういうの。いや〜いいわ」
「キミはどうなんだ」
 速水が寝転んだままくるりとこちらを向いた。肘枕をして、ごくふつうの表情で。
「好きだぜ」
「………………そうか」
 お互いに『告白』をしたというのに、なにひとつ甘ったるい雰囲気などなかった。ただ、これからさあやるぞというときであったので、そういう気分は最高潮に盛り上がっている。ような、気がする。真田は膝立ちで速水に近付いて、かれのシャツに手をかけた。速水もそれを助けるように背中を浮かせる。速水も真田のシャツを脱がせるべく手を伸ばした。……かと思うと。
「隙ありィ!」
「させるか!」
「って、ちくしょーもうちょっとだったのに!」
「いい加減にしろ速水、今日はキミを放って寝るぞ、いいんだな」
「あっごめんなさい真田先生、エッチしたいですお願いします」
「もう噛まないな」
「うん、多分」
「多分って言うな!」
 モデルルームのような真田の広いマンションでは、夜ごとこういった戦いが繰り広げられている。


人間媚薬

 真田一機という男は、医学と同時にボクシングをしていたため、どこをどう殴ればどういう結果になるかというふうに、常に実験と結果を手に入れることができた。それはボクシングをやめてからも習慣のようになっていて、ボクシングをするときでなくても人の体に触れる機会があれば同じようなことをやっていた。職業病みたいなものである。
「次そーゆーことやってたらマジで殴るからな」
 ベッドの上で、まるで恋人を引き寄せるみたいに甘えた仕草で真田の首に両腕を回し唇を近付けた速水はしかし、呆れと怒りをその声に滲ませて真田にそう宣告した。
 真田は、そんなこと言われてもこればっかりは、と思ったが賢明にも言うのはやめた。速水を怒らせたいわけではない。
「言い訳をしたいんだが」
「…………聞いてやる」
「本当はキミをめちゃくちゃにしてやりたいんだ」
「……………………は?」
「泣きじゃくらせたいし意識を飛ばすまでイカせたいし、理性が吹っ飛ぶまで快楽の虜にしてやりたい。狂い悶えるように悦がらせたい。でもキミの体に支障があってはいけないから、その限界を見極めているところだよ」
 速水は真田の首にまわした両手を震わせて、それでも下げる気にはならなかったようで、そのままの距離で囁いた。
「お、ま、え……よくそんなこと素面で言えるな……」
「キミを怒らせるよりはマシだ」
「……あ、あのよ、オレ、もう、……結構、いつも、……限界なんだけど」
 俯いて小さな声を出す速水の、真っ赤に染まった耳元へ真田が唇を近付ける。
「もっとだ、速水。もっとキミが欲しい。……ボクはいつもそう思ってる」
 速水がびくりと震えて顔を上げる。いつも減らず口を叩いてばかりいる唇が、何も言わず噛み締められた。赤い縁取りの瞳が、情欲に濡れ濡れと光る。余裕のなさそうに、速水がようやく言った。
「……この、エロドクターめ」
「キミに言われたら、ただの褒め言葉だ」
 シーツがかき混ぜられる。ベッドルームが、囁き声と衣擦れの音で満たされる。カーテンも閉めないでいられる高層マンションの窓から月明かりが、ふたりぶんの衣服が落ちる床を照らす。


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