薔 薇 に 手 錠






 速水龍一という男は、当時のフェザー級の中でひときわ華のあるボクサーだった。彼がリングに上がるとなると彼のファンである女性たちがこぞって後楽園ホールへ詰めかけたので実際それだけでも華だったが、彼自身のパフォーマンスやマスクやボクシングスタイルがまた、とびきり華があるのだった。試合前には大口を叩くが、それをきちんと実行する。4回戦のくせに生意気だと言われても、ガウンは必ず着て登場する。声援には必ず手を振り笑顔を見せ、サインにも快く応じる。何より彼はその美貌が目立った。甘く下がる目尻に精悍な唇、色艶のいい肌に長い脚、写真映えのするその立ち姿はチャンピオンでない時でさえ幾度もボクシング雑誌の扉ページを飾った。
 小橋健太は自分の右拳を眺め、それを左のてのひらに打ち付けた。その華を摘み取ったのは自分だ。枯らしたのではない。摘んで、自分のものにした。それから、彼が薔薇のようなものだったことに気が付いた。摘み取る時に傷付くのは当然だった。
 上半身を起こした小橋がベッドで物思いに耽っているその横で、毛布の中から裸の腕がにゅっと出てくる。握った拳が震えて、それから弛緩した。間延びした吐息が聞こえる。艶やかな黒髪がふわりと見えて、薔薇に似た芳香がした。ゆうべ速水が近くのコンビニで買ってきたシャンプーが、たしかそんな匂いだった。
 うつ伏せで眠っていた速水龍一は両肘を頭の横に持ってきて支え、上体をほんの少しだけ起こした。毛布が肩甲骨まですべりおちて、なめらかな裸の肩があらわになる。そのまま両手を髪に突っ込んで掻き回し、覚醒を促すように静かに呼吸をしているその一部始終を隣で眺めて、小橋はしみじみと感傷に浸る。
 もうこの、起きたての姿からして速水龍一という男は傲岸不遜なのだった。明らかに小橋がいることに気付いているし、昨日のことだって覚えていて、だからこそこちらを見ない。小橋が自分を見つめていることを知っていて、どうにも情欲を呼び起こさせるこの仕草だ。裸の肩と腕とうなじだけ見せて、何も動揺なんてしていませんよ、とばかりに呼吸をしてみせている、その速水龍一という男に、ゆうべ、小橋は夢中になった。文字通り溺れて息も出来なかった。今でも夢かと思うが、目の前でこんな姿を見せられれば嫌でも思い知らされる。ゆうべのことは現実だ。速水の手首についた紅い毛だってある。この日の為に買った、そういう行為専用の、跡のつかない手錠。なんでこんな色なんだよとからかわれたが、この色しかなかったのだ。大丈夫、痛くなかったはずだ、跡もついてない、ふわふわの毛はついてるけれど。
 華は、しおれてはいない。
 前触れなく速水が寝返りを打って、小橋の顔を見上げた。肘枕をして、尊大な顔つきをしている。
「……は、ら、」
 掠れた声に気付いて速水は顔を顰め、二、三度咳をしてから、もう一度言った。
「……腹。減ったんだけど」
 完全にゆうべのせいで声が掠れている、それが分かった途端雪崩みたいにしてゆうべの状況が小橋の脳内に流れ込んできて、思わずむせた。それから、がばりと毛布をはねのけ、何も履いていないことに気付き、慌てて当たりを見回し、落ちていた下着を身に付ける。
「あ、あの、何か、作るよ」
 毛布をめくられた速水が不機嫌そうにそれをひっぱりあげ、ちいさくくしゃみをする。
「パンとカフェラテがいい」
「……カフェラテじゃなくて、カフェオレでいい? あと、パンは食パンしかないんだけど」
「クロワッサンにいろいろ挟んであるやつがいい」
 小橋は少し黙って、じわじわと心に迫る不思議な悦びを噛み締めていた。
「買いに行くのは遠いし、さすがにイチからクロワッサンを作ってはいられないな。サンドイッチを作るよ」
 速水はそれを聞いてはあ、と吐息をひとつ、こどもみたいな仕草で再びベッドへ体を沈めた。
「できたら呼んでくれ」
 背を向けた速水に、ざわりと小橋の心が騒いだ。それはただの衝動だった。衝動にはいつもなら理性が付きまとうが、今の小橋はそれを払いのける。ぎしりと軋んだベッドに気配を感じたらしい速水が振り向くと、小橋は速水の体の両脇に手をついて覗き込んでいるのだった。
 真顔で至近距離まで近づくと、中途半端な抵抗を示すように腕を顔の前まで持ってきた。その腕をぐいと掴んでシーツに押し付ける。顔が触れ合いそうになる直前、速水がきゅっと目を閉じたので、小橋は囁いた。
「速水くん」
 数秒後、恐る恐ると言った体で速水が目を開ける。それを待っていたかのように小橋は今度こそ遠慮なく速水の唇へ自分のそれを押し付けた。速水は、抵抗しなかった。
「できたら呼ぶよ」
 だから、ここにいて。
 それだけ言って、小橋はベッドから降りる。速水の方を振り向きもせず部屋から出た。そうすることが礼儀のような気がしたので。

 速水龍一を自分のものにすると決めた時から自分はどんどん傷付いていく。だが誰だって言うに違いない。薔薇を手に入れたのなら、仕方のないことだと。傷はそのうち勲章のようなものになるだろう。