手の上なら尊敬のキス。額の上なら友情のキス。
頬の上なら厚情のキス。唇の上なら愛情のキス。
閉じた目の上なら憧憬のキス。掌の上なら懇願のキス。腕と首なら欲望のキス。
さてそのほかは、みな狂気の沙汰。
(グリル・パルツァー)
"Leonardo da Vinci and maple syrup's kiss"(レオナルド・ダ・ヴィンチとメイプルシロップの罠)
「いい天気だな」
「そうだね」
屑桐無涯がこれ以上ないほどの仏頂面で呟いたのに対し、牛尾御門は目を閉じて風の声を聞くように歌うように返した。
「何だってこんな日に……くそっ」
「ほらほら、そんな嗄れ声で喚かない」
最後まで言わないうちにげほんげほんと喉に絡まる咳をする屑桐の額には、さきほど牛尾の手で丁寧に絞られた濡れタオルが載せられている。咳をしたため少しずれたタオルを、牛尾はもとの位置に戻してやった。
「君はいつも無理をし過ぎだから。神様が休めと言っているんだよ」
「お前に言われたくねえ」
ストーブの上の、しゅんしゅんと音を立てるやかんに水を継ぎ足しながら牛尾は苦笑した。
「君に言われたくないなぁ」
「………」
「ふふ、屑桐くん、おとなしいね」
「……黙れ……」
布団を顎まで被り、ぜいぜいと肩で息をする屑桐の体温をさっき計ったが、看病する人が余裕で笑っていられるほどの低さではない。だが牛尾は余裕で笑っている。
「じゃあ牛尾くん、あとはよろしくね」
「はい」
保健医が保健室から出ていく音がして、それきりになった。屑桐は唸った。
(二人っきりかよ…)
「今何か思っただろう」
「思ってねえよ!」
「あれ、ちょっとは元気が出たみたい?」
「出るかバカ野郎…」
言葉を返すのも馬鹿らしくなって、屑桐はそれきり押し黙った。
窓の外では誰かがヒットを飛ばしたらしく、気持ちの良い金属音が聞こえた。屑桐は利き腕がどうにもうずうずとしてくる。あの音は俺が出す以外には絶対に聞きたくない音だ。
「いい音だねえ。早く君からあんな風にばんばん打ってみたいよ」
こいついつか殺す。
「あっまた何か思った」
屑桐はもう寝た振りをしようと静かに息を立てる気だったが、どうにもこうにも、詰まる鼻が安らかな呼吸を妨げる。ふしゅるる〜、ずずっ、ふしゅるるる〜。げほげほげほん。
「はい屑桐くん、ティッシュ! 寝るなら鼻を嚼んで寝る」
「あーもー」
屑桐は自分が今どれだけ情けない状態かすっかり悟り、ひったくるようにティッシュを奪ってちーん!と勢い良く鼻を嚼んでやった。くずかごに放り込んで牛尾を見上げる。牛尾は少し眉を顰めている。やってやったどうだざまあみろ。
「それで終わりじゃないだろう、まだ詰まってるのに」
それが不満かよ。
「…お節介野郎」
「意地っ張りさんが風邪を引いたら、誰でもそうなると思うよ」
「お前だけだろ」
「………そうかもしれない」
牛尾が真面目にそう言うので、屑桐はアルミ製の深皿が頭の上に落ちたほどの軽いショックを受けた。
「意味判ってんのか」
「うん。多分」
「多分って言うなー!」
喉に絡まってまた咳が出る。ぐえっほんぐえっほん。もうしょうがないなあ屑桐くんは、と言いながら牛尾は屑桐の額の上の濡れタオルを、今度は手に取って傍の洗面器に浸した。
マジでお節介野郎だ。本当に。
屑桐はそっぽを向こうとして、視界に煌めく光の粒に気付いてやめた。
3月の澄んだ空気に、太陽の光がきらきらと眩しい。牛尾の色素の薄い髪が揺れる。ただタオルを絞るだけの動作、その淀みのなさ、無償の行為に、ふと屑桐の胸のうちに不明瞭な感情が沸き起こる。
何をやっているんだ、こいつは? せっかくの春休みの部活をこんなことに費やしてやがる。俺など放っておけばいいものを。練習を怠ることを、決して自分に許さないことを知っている。こんなことをしやがって、……俺がさせてしまった。これは罪悪か? 多分、そうじゃない。こいつのこんなところに自分がいちいち罪悪を感じるのならば、最初から距離を縮められることを許してはいない。くそう、そうだった。こいつは俺に近付き過ぎている。
牛尾御門という人物にとって、俺は何だ。俺にとって、こいつは何なんだ。
判るようで判らない。判りかけているのを自分で無理矢理ヴェールを被せている感じだった。
「はい、冷たいよ」
ひんやりとした心地よい重みが額に落ちる。屑桐は感謝の言葉の代わりに深く息を吐いてみせた。
「どうしたの、ぼうっとして」
「…熱があるからな」
「うん、それはそうだね。……早く治るといいね」
ベッドの脇に両肘を付いて、組んだ指の上に頤を乗せて牛尾は微笑んだ。それはあまりにも近く、突き飛ばしたくなるほどの優しい言葉だった。屑桐は熱に浮かされていることを半分だけ自覚しながら、有り得ないことを言ってみた。
「…人にうつすと」
「なに?」
「人にうつすと、早く治るんだそうだが」
「あー、そうだね、僕も聞いたことあるよ。キスとかしたり?」
「本当かよ…」
「ええと、どうしたい? 僕にうつす?」
おいおい冗談じゃねえ!
屑桐は無論、目の前の愚かしいまでに純粋無垢な想い人に、多少は反抗してみせようとその言葉を口に昇らせただけだった。慌てる牛尾を見られればそれで満足するつもりだったのだが、こうもあっさり、しかも自分から言い出してくるとは思わなかったので完全に主導権はあちらに移された。
「少なくとも僕はうつされたいなぁ」
「……何でだ」
「君に早く治って欲しいからだよ。野球が出来ない」
「てめえはてめえでしやがったらいいんだろうが」
「そんなの野球って言わないよ。野球を好きな人と、みんなで一緒にするから野球なんだろう?」
屑桐はぐうの音も出なかった。牛尾が椅子から腰を浮かし、微かに身を乗り出したのを確認してしまって、屑桐は思わず逃げるように身体を横に寄せる。
「オイ、何する気だ」
「風邪の菌を貰おうと思って」
「俺が治ってもお前が風邪を引いたら結果は同じだろうが」
「君と一緒に野球が出来ないんじゃ同じことだよ」
「屁理屈ばっか捏ねるんじゃねえ」
「黙って」
「黙らん!」
野良猫をあやすようにゆっくり、ゆっくりと牛尾は屑桐に近付く。こんな状況でしかもこいつに覆いかぶされるなんてとんでもない。冗談くらい判れ。何の考えも覚悟も無しに口にした俺も悪いが、少しでも引っ付きやがったらあるだけの体力を振り絞って突き飛ばしてやる、毛布を握り締めながら警戒する屑桐を知ってか知らずか、牛尾は毛布から出された屑桐の手を取った。それはあまりにやさしく、まるで鳥の羽で掴まれたような優しさだった。屑桐は完全に抵抗するタイミングを失った。
牛尾の白い肌、触れてもいないのにその冷たさが空気を通して伝わる。熱に火照った屑桐の頬に、それは酷く心地良かった。
「屑桐くん…」
牛尾が傍にいる。ここにいる。これ以上自分に必要なものがあると思うなら、そんな自分は別の世界の自分だ。普段の屑桐からは考えられないようなことを、彼はぼんやりと思った。
屑桐は目を閉じる。早く良くなるといいね。その言葉が紡がれる唇を最後に見たような気がした。水のように温くなく、氷ほど冷たくない牛尾の唇は、高い温度に犯される屑桐の唇の上でやわらかく溶けた。
なんでこいつに抵抗しようなんて思ったんだろう。
冷たさと言うものがこれほど心地良いものかと、屑桐は赤ん坊が母親の乳房を探るように、夢中で牛尾の唇と舌を吸った。一瞬、掴まれた手に力が込められたが、屑桐は熱のある人間の本能でその行為をやめようとしなかった。「ん、」口付けを仕掛けた方のはずの牛尾が、微かに身を引くのを感じて、屑桐は彼の腕を掴み直して自分の方に押さえ付けた。
二人の温度がほぼ同じになり、もうどこをまさぐっても自分より冷やかな部分はなくなってしまって、屑桐はようやく唇を離して枕に倒れ込んだ。
「ふーっ…」
気持ちが、良かった。頭が少し晴れたような気がする。もっと触れていたかったが、冷たかったはずの牛尾はすっかり温まってしまった。それでも、別の意味でも、もっと。肩で息を付いて牛尾を見上げると、牛尾は手のひらを掴み屑桐を見つめたまま、顔を赤くして固まっている。
「何だ?」
「あ、」
牛尾は慌てて屑桐の上から離れようとしたが、腕を捕まえられていて出来なかった。屑桐は少し笑いながら再び訊ねた。
「どうした、牛尾」
「え…いや、その…ね?」
「言え。判らん」
「あの、………びっくりした」
屑桐は声を上げて笑った。彼が牛尾の前でしかしないように、邪気なく、屈託なく。牛尾は屑桐が被った毛布の上、彼の肩あたりに顔を伏せ、かすかに笑った。
「ふふ、胸がどきどきしてる。なんでかな、走った後みたいだ」
牛尾は掴まれた方の腕を動かし、屑桐の腕にてのひらをそっと絡ませた。
「屑桐くん…すごく、熱かった」
「お前は冷たいな」
どきどきしてんのは、お前だけじゃないけどな。知られるのは癪だから黙っている。
「ねえ屑桐くん、気のせいかな、君も凄くどきどきしてない?」
「………気のせいだろ」
「そ、かな……」
牛尾は伏せた顔を傾け、耳を毛布に当てた。ああ、バレるかな。……もういいか。バレても。
「風邪、うつってくれたかな?」
「そりゃまあ、………うつるだろ」
あれだけしたんだから。そんなセリフを言えるほど屑桐にとって牛尾はどうでもよい存在ではない。
「野球……早くしたいね」
「そうだな」
屑桐は目を閉じた。牛尾が傍にいる限り、恐いものは何もない気がした。
唇の上なら、愛情のキス。
この者が傍にいる限り、
さてその他も、みな狂喜の沙汰。