兄さんの足が風を切るとき、とても綺麗な音がする。余分な肉が一切付いていないのですばやく、無駄が無く、鋭い。これに重さが加われば完璧だ。機械鎧の重さだけではダメだ。体重と、体格…ごほん。兄さんに向かって言っても無駄なのでボクの心の中だけで留める。
 兄さんが足を振り上げる。細い足は綺麗な弧を描いて蹴り落とされる。そのまま兄さんの一撃をこの身に受けたい、と思う衝動を振り払って、腕を出し足を薙ぎ払う。ち、という舌打ちが聞こえたような気がして、そのまま兄さんはくるんと回って逆の足を振り上げた。
 まっすぐに伸ばした張りのある太腿と、スレンダーな腰つきが、何かの芸術品みたいな角度で交差する。
 迷いの無い瞳に宿る光が、金糸の髪が煌く。それはボクの無いはずの瞳に、網膜に、激しい火花のように、焼き付く。












『  慕  情  ア  ジ  タ  ー  ト  』











「……………っ」
 兄さんが片膝を付いて、しんどそうに呼吸をしているのを横目で眺める。ボクはひっくり返っている。ボクには生身の身体がないので、深呼吸する必要も身体の具合を確かめる必要もない。だから、ボクがひっくり返ったまま起き上がらないのは、完全にボクの勝手だ。
 兄さんが、俯いていた頭を上げて、キッとこちらを睨み付けた。
「………ア〜ル〜、てめ〜〜な〜〜〜〜〜〜………………」
 兄さんはものすごい形相で立ち上がり、ズカズカと歩いてきて、機械鎧の方の足でガツン! とボクの太腿のあたりを踏みつけた。
「今日という今日は許さねぇ! 毎回毎回毎ッッ回、手ェ抜きやがって!!」
 兄さんが身長の割には長い足(!)を振り上げるととても見栄えがする。すばらしい角度で伸ばされたそれをうっとりと眺めてしまったボクに罪は無い。
「一体どういうつもりだ! えぇ?!」
「………手を抜いてるワケじゃ」
「ねぇっつうんなら何だ! 言え! 納得出来る理由じゃなかったらタダじゃ済まさねえ」
 油を注がれた焚き火みたいに怒ってる。理由は何もかもボクにあるし、ボクが観念するしかないと思ったのは当然のことだ。
「…………あの」
「あァ?!!」
「みとれて、ました」
 ガラの悪いやくざみたいな剣幕で怒っていた兄さんが、一瞬その表情に疑問符を浮かべる。次の瞬間、ガックリと音がしそうな勢いで肩を落とした。兄さんは聡明なので、詳しい説明がいらない。
「………………………………。」
「ご、ごめん」
「もういやだ」
「……………ごめん」
「この答えにものすごく納得出来てしまった自分が嫌だぁぁぁぁぁ!!!」
「す、すいませ〜〜〜ん…………!!」
「すいませんじゃねえこのアホ! バカ! 間抜け!! ああもうおまえは、おまえというヤツは〜〜〜〜〜〜!!」
 がっしゃんがっしゃんがっしゃんと兄さんは身体ごと乗り上げてボクの体の上で足踏みをした。うう、こ、壊れる……。
 兄さんは絶叫しすぎてぜーはーと息をしている。
「だから手を抜いてるワケじゃないんだよ。悪いけどそれに関してはむしろめちゃくちゃ真剣にことに望んでるよ。もう必死だよ」
「そんな真剣さはいらねぇ……!」
「兄さんは納得行かないかもしれないけど、それは兄さんの実力のうちであって、卑怯とかそんなのじゃないよ」
「そんな実力もいらねぇぇぇぇ!!」
「うん……いらないよね……」
 ボクだけに効くのならいいけど間違いなく他の人に対しても効くんだろうな、このテンプテーションは。ああほんと厄介だ。要らない。その部分だけ捨てたい。とかいう思いもとりあえず黙っておく。
 ボクの上に乗っかったまま、肩を落として背中に暗雲を背負っている兄さんを、ボクは下から見上げている。この人はどんな角度から見ても綺麗だなぁ、とか思っていると。
 ふ、と兄さんと目が合った。少しドキリとして、いや、したような気がする。今のボクには心臓がないので。
「なんかさぁ」
「え?」
「おまえ、それ……いつになったら治るの?」
 そんな、薄ら笑いを浮かべてこっちを見ないで!
「治らないよ」
「んなッ……間髪置かずに言い切るなぁ!」
「だって治らないものは治らないんだもん! ていうか病気みたいに言わないでよ! それをいうなら兄さんがボクの病原体だよ!」
「とんでもねぇこと言うな! オレが悪いってのか?! 勝手に好きになりやがっ……て……」
 兄さんは最後の方の言葉は濁して押し黙った。ボクは静かに、抑揚の無い声で言った。
「そうだよ。勝手に好きになってごめんね」
「………思ってねぇだろ」
「うん。悪いとは思ってるけど、好きにならなきゃ良かったとは思わない。この気持ち以外にボクを証明するものが見つからない」
 ボクはゆっくり喋った。ごめんなさい。勝手に好きになってごめんなさい。でも。この気持ちが伝わればいい。兄さんに伝わりますように。………大好きだよ。
 兄さんはじっとボクのおなかの上に座っている。
 兄さんはこういうとき、ボクから離れようとしない。実の弟にこんなことを言われて、こんな気持ちを抱かれて、どうして今までと同じようにボクとの関係を続けようとすることが出来るんだろう。
 ボクの兄さんは偉大だ。
 ボクは、ボクのおなかにはりついた兄さんの手のひらをそっと取った。兄さんがこっちを見た。
「好きになって良かった、って、思ってもいい?」
「何だそれ。何でオレに聞くんだ」
「一応、兄さんの意思を尊重してるつもりなの」
「………ほう。毎晩毎晩嫌がってる人のケツの穴散々ほじくり返しておいてそのセリフか」
「い……い……いちお……いちおう……そう……です……」
 兄さんはこういうとき、びりびりと音がしそうほど強烈な官能的オーラを体中から発する。そんな内容のセリフ、兄さんの整った顔で、低く響かせる声で言わないで。
 目の前のひとの、昨晩の姿がフラッシュバックする。ボクの下で羞恥と快感に綺麗な身を捩らせて、涙を流して、仰け反って、しどけなく乱れて。
 ボクの手の中で。
 こんな男前が。
(そんなのって、反則だ)
 ボクの声が震えているのを罪悪感からと取ったのかそうでないのか、兄さんは少しのあいだ何か考えるふうなそぶりをしてから、ボクの手をやんわりと解き、脇に置いた。それからボクの上に乗ったまま上半身を倒して、ボクの顔を両手で挟む。
「なぁ、アルフォンス」
 無いはずの心臓が不穏な音を立てている気がする。心まで覗き込まれているような、この体勢は危ないと思う。兄さんがボクの上に乗っかるなんてほとんどないのだ。……逆は毎晩だけど。
 ボクのからっぽの眼孔を覗き込み、兄さんは言った。
「オレのどういうところが好きだ」

 うわあ。

 ボクに心臓が無いなんて嘘だ。ていうか兄さん、今ボクの心臓を錬成したんじゃない? このものすごい心臓の音が聞こえる?
「……兄さん、それ、全部聞いてくれるの?」
「一言で言え」
「………………………」
 ボクは兄さんの精悍な顔立ちに間近で見つめられながら、意識が酩酊するのを必死で抑えた。この状況で何か考え事をしろと言われても無理だ。……ダメだ。今ものすごく抱き締めたい。兄さん兄さん兄さん兄さん。なんて顔でボクを見るの。そんな顔でこんな体勢で、なんてこと聞くの。
 大好きな兄さん、どう言えば判ってくれますか。
 ボクはしばらく黙って、そのあと兄さんの頬に片手を遣って、何も言われなかったのでそのまま柔らかな肌をなめし革の指でなぞった。
 んだよ、とちいさく兄さんが呟く。
 んだよ、じゃないよ。何でもないよ。何でもなくなって貴方に触れたい。ボクは貴方のたったひとりの弟なんだもの。
「…………兄さんが、兄さんであるところ」
 兄さんは目を丸くした。ボクは嬉しくなった。
「……………えへ。ほんとに一言で言えちゃった」
 兄さんは、ふ、と笑った。おまえね、と言ってボクの兜の部分をこつんと小突く。
「言ってくれるなぁ」
「なんで」
「オレも、おまえが弟だから、だな」
「え。何が?」
「自分で考えろ」
 にっと笑う、その表情にボクの意識はまた釘付けになる。その隙に、は、と息を吸い込んだ兄さんは、ボクの肩に手を付いて腰を起こし、その手を軸にして足を振り上げる。きれいにボクの頭の上で舞う姿を、スローモーションで見つめていた。
 すたん、と地面に着地した兄さんにボクは拍手をした。ぱちぱちじゃなくて、ばんばんばん、っていう音だけど。
 兄さんはくるりと振り返った。陽光にみつあみの金髪がきらめいて、とても眩しい、とボクは思った。
「いつまで寝てるんだ。とっとと起きろ。それともまた見とれたか?」
「また、じゃないよ。いつもだよ」
「うへぇ。おまえのその言い方、こないだのナンパ野郎みてぇ」
「そう?」
 兄さん相手にナンパするならほんと死ぬ気でかからなきゃね、と思いながらボクは立ち上がる。この組手が終わったら、兄さんと一緒に街の夕方の食卓に着く予定なのだ。





 其の慕情はどこまでも限りなくアジタートに、アジタートにボクに降り積もる。