kuessen,kuessen mein Gott.
ふと「このまま」でいられる未来を夢想することがある。
アルフォンス・ハイデリヒは大学から帰ってきて、別段何をするでもなく台所のテーブルに腰掛けていた。この家の同居人は、ハイデリヒの目の前でティーサーバに湯を汲んでいる。
何をするでもなく、というのは大嘘であるのだが。
「面白かったか? 例の講義は」
ぼうっとしていて返事が遅れた。ハイデリヒは慌てて、勢い良く首を縦に振った。
「うん。凄く。あの、凄く面白かったよ。後でメモ見てね」
「お、おう。何だお前、オーバーリアクションだな」
「いやちょっと、考え事してて。えへへ」
「ほう」
同居人、エドワード・エルリックは少し考えてにやりと笑った。座ったハイデリヒの目の前に、精悍な顔を近づけて、ハイデリヒの頬をなぞる。
「俺に見蕩れていたのか」
心臓が思い切り飛び跳ねた。ハイデリヒまでも少し飛び上がってしまった。エドワードはもう離れていて、くすくす笑っている。
口に手を遣って笑う様は、それだけでも切り取った絵のような風景で。
もうダメだ、と思うと同時にエドワードは不思議なことを言う。
「いかんなー。まるでダメだなー。参った」
「えっ…いやあの…な、何なの……」
上半身を仰け反らせて、暴れる心臓を押さえてハイデリヒは困惑している。エドワードはまだ笑いながら、二人分のティーカップにアプフェルテーを注ぐ。
「うん。ダメだな。離れて暮らした方がいいわお前」
「え?」
エドワードはほらよ、と言ってカップを差し出した。おそるおそる受け取ったハイデリヒは不安げだ。
「どういうこと?」
「いやな、お前のために、って話なんだけど」
立ったまま一口飲んで、エドワードはひとつ息をついた。こちらに視線が来て、ハイデリヒはどきりとする。エドワードが手を伸ばしてくる。え、え、と思う間にその手はハイデリヒの髪をくしゃりと撫でた。暖かい手。……エドワードの、てのひら。
ハイデリヒには思わずにはいられないことがあって、それはたとえばこういう時に酷く思い知らされる。
「なんか、かわいいんだよなお前」
「………………」
「そのうち、俺、お前のこと襲っちまいそう。だから離れてくれた方が有難い」
「………は、い?」
目をまん丸にして固まっているハイデリヒにいよいよ体を近づけたエドワードは、両手でハイデリヒの顔を包み込んで囁いた。
「ハイデ」
こんな近くで名を呼ばれて。その声で。その顔で。
「キスしたら怒るか」
「…………き…………」
「キス。めちゃくちゃしてぇんだけど」
先ほどからハイデリヒの心臓は飛び跳ねたり止まったり忙しいが、この時ばかりはもう爆発しそうだった。
何言ってんだこの人。
「………やだ………」
「ん? なんて?」
「やだ。……嫌、です……」
あからさまにがっかりした表情で、エドワードはハイデリヒから手を離して上半身を起こした。
「はーっ……嫌がられた……」
「い、………嫌がるよ当たり前でしょ?! 大体何言ってんのさっきから?! 酷くない、エドワード?! 突然どうしたのさ」
「突然と言いますかねー。俺は常々思っていたんですが」
「つ、常々………」
これだけ長い時間一緒にいて。これだけ仲良くなっておいて。これだけ、あなたのことを思ってしまう自分にさせておいて。
「うん、まぁ、そういう訳でだ。俺から離れた方がいい」
あなたのことを拒めない自分にしておいて。
「それでお前が離れないっていうんなら、覚悟の上一緒に住んでくれ」
「な、何の覚悟っっ?!」
「俺とセックスする覚悟」
ハイデリヒの口が真四角に開かれたまま固まった。エドワードはまた紅茶を飲んで、やっぱり向こうのウバ茶が一番おいしいんだがなァ、とか何とか呟いている。
「なっなっなんで、せ、せ」
ハイデリヒは可哀想に真っ赤になってその単語を口篭ってから、
「……したいのさ、それ」
「さぁ?」
「さぁじゃないでしょ?! 大事なとこでしょそれ?!」
エドワードがカップをテーブルにおいてまたハイデリヒに近づく。今度はハイデリヒは大急ぎで椅子ごと後ろに退いた。
「お前な、あからさまにそう警戒すんなよ。……そういうところが、っつーかそういうところも可愛い」
「か、か、か、可愛いからするのっ?!」
「それもある」
「どれもあるの?!」
「いろいろ」
「いろいろじゃ判らーーーん!!」
「いや俺も聞きたいんだけど、お前全然俺と離れて暮らす気ねぇだろ。今の言葉とか態度とか見ててもちょっとおかしいなぁ、おまえ。ん?」
ハイデリヒは絶句した。今度こそ、耳朶まで真っ赤に染め上げた。エドワードはくしゃっと笑った。
「そんなことで、覚悟しておくように」
「しない! 絶対しない!」
「じゃあお前、引越しだな」
ハイデリヒは半泣きで叫んだ。
「酷いよエドワード! 酷い! 酷い酷い酷い酷い! この外道!」
「おお、その単語はなぜかお前に言われると心地良い。もっと言ってくれ。…あだっ、あだだだお前おい足で蹴るな! 年上を足で蹴るな!」
あなたのいない世界なんて、考えられない。
僕がそう言おうとした直後のあなたの告白を、当分僕はこの胸のうちで熟成させておくしかないのだろう。
※おまけ。
キッチンに出てきたハイデリヒは、そのテーブルの上にちょこんと置かれた物体を見て噴火した。
「エドワーーーーーーーーーーーーーード!」
「おお、何だハイデリヒ、感動したか」
「いや何が?! ってかこれ! コレ何なのさ! 嫌がらせ?! セクシャルハラスメント?!」
「いや、俺の愛情」
「何でこれのどこが愛情ーーーーーーーーー??!!」
「いや俺も実のところ初めてだからな、絶対にお前を泣かせたり痛くさせたりしたくねーからなー」
「お願いですこんなもの食卓に置かないで下さい…………」
「俺とお前の今までの生活で一番行為に及ぶ確率の高い場所を選んで置いてみた」
「なんでキッチンなんだよーーーーーーーーーーーー!!!???」
「お前いつもキッチンにいる気がする。いつも旨い飯食わせてくれてサンキュな、ハイデ」
不意打ちに頬を撫でられ、にこりと微笑まれる。
不意打ち。
エドワードの手のひらは今までの会話も状況も消し去ってしまう。吸い込まれるようにエドワードに魅入るハイデリヒの唇は、それ以上言葉を発せず、目の前の人に対する賞賛のため息だけが漏らされた。
「キス………するぜ………?」
その言葉はまるで魔法のようにハイデリヒの中に染み込む。ふらり。悪魔の誘惑に蕩けかけて、一瞬。
「だっ……………ダメーーーーーーーーーー!!!!!」
「どわぁぁぁぁぁぁっっっ?!!」
どーんと思いっきり突き飛ばされて、エドワードは見事にひっくり返った。ついでに戸棚の上の雑誌がうまい具合にエドワードの頭にどさりと落ちた。
「ぐはっ」
「はぁっ…はぁっ…はぁっ…ったく、油断も隙も無い……っっ」
「……んっとに容赦ねぇの、お前……」
上半身を起こした状態で、エドワードはそれでも精悍に笑った。
「まんざらでもねぇ顔してんぜ? ハイデリヒ」
「ばかばかばかばかばか!!!しっ視力悪いんじゃないの?!」
「そういうことにしておいてやるよ、今のところは」
o mein Gott!
こんなにあなたのことが好きな自分が馬鹿なんだ。それくらい僕にでも判るよ!