愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、
不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
(新約聖書『コリント人への手紙』4-8)
いすかの嘴
「ね、無涯。そろそろ行かないと」
「ダメだ」
校舎の白いコンクリートの上、二つの影がひとつのかたまりのようになって伸びている。上は青空、見下ろす下は街の風景。休み時間に屋上にいるのは、牛尾御門と屑桐無涯だ。最初は並んでフェンスの傍にいたのに、屑桐が無言で後ろから覆い被さってきて、牛尾も何も言わないので、しばらくそのままでいた。
「ダメだって……授業が始まるよ」
「こうしているのが嫌なのか」
「嫌じゃないよ、無涯。何遍も言わせないでくれ」
「じゃ黙っていろ」
「もう……君って人は」
牛尾は溜息とともに、屑桐の方に頭をことんとあずけた。こちらからは見えない表情は、多分微笑みを浮かべている。
屑桐は大人しくなった牛尾を、壊れものを抱くように抱き締め直した。
牛尾は錯覚する。屑桐の、自分を抱く様は、まるで逆なのだ。自分が抱き締めてやっているのではないかと疑う程に、切実なまでの暖かさを伴う。屑桐はきっと、時が止まればいいと願っている。
君が願うなら、僕も願おう。
「責任は取れよ」
「……? 何のコトだい」
「判らなければいい。キサマはオレのそばにいればいい」
「いるよ、無涯。ここに、ずっと」
牛尾は確かな声で囁いた。
屑桐は願うしかないのだ。それが嘘では無いことを、牛尾が離れて行かないことを。
牛尾は、微かに震える屑桐の耳にそっと囁いた。
「そばに、いるよ」
「牛尾……牛尾っ……!」
「っう、あぁっ、無涯…っ」
考えられる事はひとつだった。どうしてここに自分がいるのか、どうしてここに牛尾がいるのか。ともすると、それさえ考えられない時もあるくらいに、屑桐は必死になる。
「っく、どこにも…行くな、キサマは俺のもんだ…っ」
「あっ…あぁっ、無涯ぃっ」
牛尾のことを考えないわけではない。自分の不器用なまでの容量の低さを呪っても、牛尾はここにいる。それで良かった。これ以上のことを望めない。これ以下も。
「誰にも…渡さねえ…っ、く、はぁ…っ」
「あっあっ、だめ、無涯っ…!」
この想いは、壊れないように大事に大事に触れなければ壊れてしまう。それだけを恐れる。泣いているのは牛尾では無く、自分かも知れない。牛尾は泣きながら自分を受け入れる。自分は泣きながら牛尾を抱く。自分達はどうあるべきなのか、もう考えられなかった。
「牛尾…!」
「あ、あ……っ!」
牛尾が張り詰めた自身からたくさんの涙を零すと、屑桐の熱い情がどくどくと牛尾の体内に注ぎ込まれた。
「あっ…ふ…」
「っく……牛…尾…!」
屑桐は荒い息をつきながら、同じように息を弾ませている牛尾を、きつく抱き締めた。牛尾に抱かれないから、自分で抱く。そうでないといけないし、他にどうしようもないのだ。抱き締めていないと、こいつはどこかへ行ってしまう。気が狂いそうだった。
牛尾は、屑桐に散々泣かされた後の掠れた声で囁いた。
「どこにも……行かないよ……」
「黙っていろ」
屑桐が有無を言わせぬ調子で、半ば唱えるように言った。
「オレが決めることだ。オレが、お前を、どこにも行かせない」
牛尾が荒い息のまま目をぱちくりさせ、それから幽かに笑った。
「ワガママ」
「何とでも言え」
「好きだよ」
「……それは、とっとけ」
「どうしてだい? 今じゃないと言えないよ」
「うるさい。口答えするな」
屑桐が息がとまるほどの強さで抱き締めてきて、それなのにこの乱暴さの中に込められた彼の想いが、これでもかというほどに判るのだ。
牛尾は微笑んで、愛しそうに体を預けた。
「苦しいよ、無涯」
「黙れと言ってるだろう」
「だって、苦しいものは苦しいんだもの」
「その口、もう一度塞がれたいのか」
「……判った?」
今度は屑桐が呆気に取られる番だった。牛尾はそんな屑桐に目をつむり、微笑んで唇を差し出している。
「……キサマ」
「早く」
噛みつくような屑桐のキスは、勢いほどには乱暴でも雑でもないのだ。
「泣く必要なんて、どこにもないのに」
「泣いてなんかない」
「じゃあこの涙は何?」
「お前のだろ」
牛尾は何で、と言って可笑しそうに笑った。
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