INSERT/sanctuary
風呂から上がって、髪を拭いて、さっぱりしたところでオレは水を飲みに台所へ降りた。そこにはアルフォンスがいて、テーブルの上に頬杖を付いている。何やら物思いに耽っているらしかった。
「何やってんだ」
「あ、兄さん上がったの?」
「おう、お先。おまえ飯終わってからずっとそこにいたわけ?」
「いやちょっとぼうっとしてて」
アルフォンスの目の前には料理の本がある。アルフォンスはそれをめくって夢見るように言った。
「やっぱり凄いよね、錬金術って。最近本当に純粋に思うんだ、よいこともわるいこともあるんだろうけどそういうこと一切抜きにしてボクはこの世界を素晴らしいと思う」
「トマトと牛乳が合わさると旨いとか?」
「今夜のスープは抜群だったね! ちなみに兄さん、牛乳は下の段」
「誰が飲むか!!」
「自分で話振ったくせに」
アルフォンスは柔らかく笑っている。錬金術に真剣な顔を見せる弟は好きだ。オレは牛乳のかわりに水を呷ってそいつの横顔をこっそり眺めた。
アルフォンスはオレのたった一人の弟で、オレに恋をしていて、オレは心底困っちゃいるが真剣に心配はしていない。それは結局オレがどれほどこいつにハマっているかという証拠であって、オレは自分でよく判っている。
恋でもなんでもいい。オレに執着していろ。
結局オレは自分たちの絆を信じていないのと一緒だ。臆病だ。だったらどうする? アルフォンスの言うようにオレの性格は負けず嫌いで傲岸不遜だ。何だって出来るし、してやる。克服するためにはどうすれば? アルフォンスを突き放す? アルフォンスを(肉体的に)受け入れる? どっちも出来るか! もっといい方法はあるはずだ。この天才錬金術師エドワード様に不可能の文字はない。…はずだ。…多分。いやこういう方面については奥手で…いやそんなことはない! オレは天才なのだから。
まあ、そういった詮無いことをぐるぐると考えながらオレはシャワーを浴びていたのだが、その間にこの弟は錬金術について崇高なる考えをめぐらしていたわけだ。不公平だ。
オレへの欲望(のみ)に忠実なる弟は、ここ数日の間なりを潜めている。理由が判らないのでその分オレがあれこれ詮索している。キスさせろ触らせろ抱かせろなどと言われない日々は幾分平和だ、だが気が抜ける。こいつらしくない。オレは改めてこいつが「いい男」であることに気付いてしまって、気分はよろしくない。
ああ、こいつは外じゃこういうヤツなのか。そりゃまあモテるんだろう。外の奴らが言うように。判ってはいたが、改めて実感する。……勿体ねえ。オレなんかに、おまえ。
飲んでいた水がいきなり気管に入って、オレはむせた。まるっきりアルフォンスのことで頭が一杯じゃねえか。
「え、兄さん大丈夫?」
オレは咳き込みながら不機嫌になって、心配そうな顔をするアルフォンスに無言で手を振り、おやすみ、とだけ言って台所をあとにしようとした。
アルフォンスが引き止めないであろうことはここ数日の間の態度で判っていた。普通ならおやすみのキスを、とか一緒に寝ようとか思わない? とかギラギラした目つき(しかし必死なのでなんとなく可愛いとか思ってしまう)で言ってきて、オレは言葉もしくは文字通り自分の足で一蹴して終わる。のだが。
あ、やっぱり追ってこない。まあいいや。今日はひさびさにゆっくり惰眠を貪ろう。丁度調べものがひと段落着いたのだ。
と思っていたら、台所つづきのリビングに足を踏み入れた時点で背後の気配に気付いた。
「兄さん!」
声と同時に手を掴まれる。オレはビビッて、本当にビビッて飛び退ろうとした。だって本当に声をかけられるまで気配がなかったのだ。しかし固く掴まれた手首は離れない。
「ちょっ……な、なんだよ、おまえ」
「うん……あの、ごめん」
本当に申し訳なさそうにアルフォンスは謝った。しかし手を離そうとしないし、何やら独特の威圧感が漂っている。アルフォンスはただじっとオレを見つめている。くすぐったいくらいに。
「何だよ」
アルフォンスはぎゅっとオレの手首を握り締めた。何も喋らない。オレはしばらく待ってみた。アルフォンスは短い吐息をついて、すっとオレの腰に腕を回した。咄嗟に頭の中で警鐘が鳴る。何かされる。振りほどこうとした一瞬、体全体で抱き締めるように捕らえられ、その部分全体に力をかけられオレは後退し、殴ってやろうと思って振り上げた腕を捕まえられ足を引っ掛けられる。天井が、見えた!
どさっ、と案外柔らかい感触。ソファだ。オレの上にはアルフォンスがいて、物凄く力学的にまずい状態だった。仰向けの人間と四つん這いの人間とでは相性が良すぎて悪すぎる。足を蹴り上げようとすると膝を押し付けられ、捕まえられた腕を頭に血が上るほど力を込めて振りほどこうとしても、ものすごい強さで逆にソファに押さえ付けられる。流石に腹が立った。
「てめ……っ、いきなり何なんだよ!」
「どうもこうもないよ。見たままだろ」
それでもオレは手首が真っ白になるほど抵抗した。アルフォンスは流石に息を途切れさせた。
「今から強姦か?」
「強姦じゃない。セックスだ」
「強姦だろうが」
「決めつけないで」
そういうアルフォンスは、胸がしんとするほど真剣な顔をしている。馬鹿にしてんのか、という台詞は言えなくなった。
押さえ付けられた手を押し返そうとしている腕がだんだん震えてきた。オレは屈辱と悔しさに眩暈がしだした。アルフォンスには力でかなわない。オレ達はそれをお互いに判っていたのに、アルフォンスがこうして当然のようにオレを押さえ込んでいるのは、その事実をわざわざオレに見せつけているようなものだ。
「ねぇ、力を抜いて。折れちゃうよ」
「結構だ。聡明なアルフォンスくんの分析するように、オレは大人しくしてるくらいなら折れた方がマシってタイプだ……ッッ、っく……ッ、違う、か?」
腕の感覚がなくなってきた。脂汗が頬を伝ったが、オレはそれでもにやりと笑った。
「兄さんが抵抗する意味がない、って言ってるんだ。お願いだから力を抜いて」
「悪いが色々腹立ってそれどころじゃねえ」
「ねぇ兄さん、そっぽ向かないで、こっちを見て。ボクの目を見て」
「っせーなッッ……なんだよ!」
オレはヤケクソになってアルフォンスを見た。見てやった。アルフォンスは丁寧にその言葉をオレに伝えた。
「愛してる」
それはオレの力も緩むほどの衝撃だった。
愛してる。
何日ぶりの言葉だろう。愛してる、アルフォンスはこの言葉をオレに向かって一日20ぺんは言ったものだった。それも変わらぬ濃度で。
ああ、今目の前にいる男は、あいも変わらず愚かしいまでに愛おしいオレの弟だった。
抵抗するのが一気に馬鹿らしくなって、オレは腕の力を抜いた。息が切れる。最近こんなにぎりぎりの戦いをすることなど無かった。
「………はぁっ」
「お願い聞いてくれてありがとう」
アルフォンスは微笑んでいる。
「ねぇ、ずっと考えてたんだ。さっきも言ったように、ボクはやっぱり錬金術は素晴らしいと思う。単体じゃそのままなのに、ボクが手を加えることによって別のものに変化する。素晴らしい変化だ。かけがえのないものだ。二度と元通りにはならないものもある。だからこそ尊い。大事にしたい」
アルフォンスがオレの髪を撫でる。それは提案に近い懇願だった。
「ねぇ兄さん、セックスしよう。ボクたちの関係が二度と元に戻らなくても、それはきっと愛せるものだ。兄さんと溶け合いたい。幸せすぎて、きっと違うものになっちゃう。錬金術の存在する世界でセックスしないのは勿体無い話だと思わない? 兄さんがしり込みするのはお門違いだ。やってみなくちゃ判らないというのが口癖の人は今何しているの?」
「………………ここで、おまえの目の前で口をアホみたいにあけて面白い話を聞いている」
「うん、そうだね。ここまで言われちゃって、その人は今どう考えているんだろ」
「さあな……ひょっとしたら言い包められても面白いかもとか思ってんじゃね」
「その人らしいなぁ」
アルフォンスはくすくすと笑った。オレも何だか気が抜けて、笑った。
ここまでオレの事を考えてもらっていると、ニヤニヤ笑いがとてもじゃないが止まらない。オレには一向に相手にされないのでしばらくは錬金術に没頭してみたところ、とどのつまり行き着く思考はオレだったというワケだ。ちょっとでもこいつを「いい男」だなんて思ってしまったオレが間違っていた。オレの前でだけ、本当に、「いい男」なんだ。ちくしょう。
そのあとのことは全て流れに任せた。逆らう理由もなかった。大したことではないように思われたのだ。こういうことをするのは必然的だと。
視線が、重なる。笑い声が、消える。アルフォンスはオレとの距離を失くす。顔を少し、傾ける。キス。アルフォンスの重みが愛しい。アルフォンスの腕がオレの体温を確かめるように、オレの体の上を滑る。アルフォンスは唇を離して、オレの顔を覗き込む。
「愛してる」
「オレもだよ」
途端にアルフォンスの動きが止まった。みるみるうちに頬が染まってゆく。オレは笑った。
「へっ。動揺してやがる」
「な、何それ。そのために言ったの?」
「オレは嘘はつけない性質だぜ」
「……………知ってる」
アルフォンスはオレの首筋に顔を埋めた。短い髪がオレの頤を擽る。まるで縋る子供のように思えて、愛しい。
「めちゃくちゃにしちゃうよ」
「ほう。おまえの錬金術をじかに体験するわけか、オレは」
「に、兄さんが言うとやらしいんだけど。……ほんとにいいの? あの、ここでヤダって言っても今度ばかりは踏みとどまれそうにないんですけど」
「オレ様は頭の回転が速いんでな。実はおまえの言う事にも一理あると速攻で納得した」
ここまでされちゃあ、たまらない。
「変化、大いにさせてみせようじゃねえか」
オレはアルフォンスの頭を両手で掴んで、ニカッと笑った。