*Komm an meine Brust!
「……なるほどな……んで、あれを、こう……」
テーブル越しのエドワード・エルリックが、向かい合って座った椅子に凭れて何やらぶつぶつ言っている。下宿の叔母さんが差し入れに持ってきてくれたウバ茶は減らないまま、すっかり冷えてしまっていた。アルフォンス・ハイデリヒはそれを横目で見ながら百科事典を捲る手をとめた。
エドワードは読書中、集中力が高まってくると無意識に声を出す。うるさいなら部屋を変えればいい話であって、それをしないのはひとえにそんな彼を見ているのもハイデリヒは嫌いではなかったからだ。
ハイデリヒは彼の真剣な横顔を見ているのが好きだった。彼のそばにいることも好きだった。彼と会って、一緒に暮らし始めて、今振り返っても彼を知らなかった頃の自分にはもう戻れないだろうと思い知る。
ハイデリヒも馬鹿ではないので、このままではまずいと心が警鐘を鳴らしていることも知っている。ハイデリヒは馬鹿ではないが、人並みに臆病だった。それも彼と出会って知ったことだ。臆病なんて言葉を自分に使うことも初めてで、自分の幸せが失われることを先延ばしにする愚かさを持ち得ていたことも新鮮であった。
こんな想いを抱いていることをエドワードは知りもしない。知ろうとも思わない。知ってくれようとしても自分は決して言わない。それは約束のようなものだった。
知らないうちに彼に目が行く。自分でも気付いていないうちに彼のことだけを考えている自分がいる。それがいいとか悪いとかすら考える暇もなく。
エドワードの呟きはまだ続いている。彼の手の中の本は、普段手にする技術書に比べてずっと分厚く大きかった。
「ふむふむ。入れるなら舐めるな、舐めるなら入れるな! か。確かにな……いくら綺麗にしたって細菌がどうのこうのうんたらかんたら」
「……………エドワード」
「潤滑油はケチるな。少しでも傷付いたり相手が痛そうならば速攻中断すること! 本当にデリケートな粘膜です。よく肝に命じておいて下さい…うんうん」
「……………何読んでるの」
「アナルセックスのハウツー」
ハイデリヒは読んでいた分厚い百科事典をばん!と閉じ、その際に指を思い切り挟んでしまったらしく声も無く机に突っ伏してしまった。
「何やってんだお前」
「はさ…挟んだ…」
「あ?」
ばっかだなお前、エドワードはそう言って苦笑して、向かい合って座った机の向こう側のハイデリヒの手を取った。ハイデリヒはがばっと起き上がったが、エドワードはまったく気にすることなく、そうっとハイデリヒの指を自分の手のひらで包み込んだ。
「……………っ、」
「俺の手、冷たいだろ?」
ハイデリヒが唇を結んでいるのは、頬を染めているのは、痛みのせいだけではない。
「え、エドワード」
「痛いか?」
「………………痛いけど、ちょっとまし」
「ん」
エドワードは何でもないことのようにそのままじっとしている。エドワードに触れられているということだけで、心臓が凄い音を立てる。おかしい、ヘンなの、たくさん走ったあとみたいだ。ハイデリヒはどうしようもない感覚に陥る。しばらくしてエドワードは温まった手を離し、もう片方の手でまたハイデリヒの指を包む。
エドワードは無言だった。意識しているのは自分だけなのだ。ハイデリヒは落ち着く気持ちと落ち着かない気持ちがごちゃ混ぜになっている。
「エドワード」
「ん」
「どうしてこんなに冷たいの、手」
「もとからなんだよ俺。あー……良く言うじゃん、手のひらが冷たいひとは心があったかいってなー」
エドワードはにかっと笑った。
「うん…そうだね…」
「えぇ?! そこは突っ込むトコだろ、自分で言うなーって」
「優しいよ、エドワードは」
「………何も出ねーぞ」
「なにもいらない」
そうやって、僕の傍にいてくれれば。
ぼうっと、目の前のすぐそばの綺麗な人を見つめる自分の顔は、自覚もなくちいさな子供がするような表情であったのだろう。エドワードは手を伸ばしてハイデリヒの目尻に指をやった。ハイデリヒは少し驚いてかすかに仰け反ったが、すぐにそのわけを知った。
「……俺がまだ何もしないうちから泣いてくれんな」
「え? あ? ぼ、僕泣いてる?」
「ほんとに痛かったんだろ、ばかだなお前。お前って結構おっちょこちょいだもんなぁ」
「だ、だ、だって、エドワードが、……ちょっと待って、今何かヘンな事言わなかった?」
「俺がお前を抱いてから泣くのは判るが」
「ストッ………すとーっぷ! すとっぷエドワード!! 何言って」
「聞いたのはお前だろ……。さ、もう痛みも引いたな」
エドワードはハイデリヒの手を掴んだまま立ち上がり、そのまま引っ張りあげる。ハイデリヒは頭に疑問符を並べながら椅子から腰を浮かした。
「ほら、移動するぞ。ちゃんと立って」
「なに? どしたの、どこ行くの?」
「隣の部屋」
「へ?」
「もう俺完璧に覚えたし。シミュレーションもしたし。あとは実行するだけだ。ここじゃ出来ん。背中が痛い」
「…………………え、え、え、エドワード」
「だいじょーぶだいじょーぶ。ぜーーったい痛くしない。てか痛かったらやめる」
「ま、待って! まってエドワード!」
両手をしっかりと掴まれている上に、ハイデリヒは非常に動揺していて、そのままずるずると寝室に引きずり込まれる。大体、エドワードはそれほど力を込めていないのだ。抵抗できないことを知っていて、その訳までも知っていてわざと軽く引っ張っているのがこの男だ。
何をされるのか判っている。この男は前からハイデリヒに向かって公言しているが、決して公正なのではなく、これでは逆に逃げられない。そういう点ではよほど卑怯な手段だ。
「はい座って」
どうしようどうしよう、とぐるぐるしているハイデリヒの手を掴んだまま、とさり、と自分のベッドの上に座らせて、エドワードはそのまま被さろうとする。ハイデリヒは丸まって必死でエドワードの手を押しのける。
「えっエドワード、エドワードっ」
掴んだハイデリヒの手の甲に、エドワードは軽く口付けた。ひゃあっ、とハイデリヒの頬と顔と頭と心臓が一気に燃え上がった。
「ほ、ほんとに、だめ…やめて…」
「嫌よ嫌よも好きのうち、ってな」
何でこの人はこんなにノリノリなんだ! 手動式の井戸みたいな音を立てて鳴る心臓のせいでうまく抵抗出来ないのをいいことに、エドワードはハイデリヒのシャツのボタンを器用にするするとはずしてゆく。ハイデリヒは焦った。
「わーっ、わーっ、だ、だめ〜〜!!」
「いいからいいから。怖くない、怖くない」
う、うわっ。何その声。
ハイデリヒの体全体が、甘い期待にぞくりと粟立った。強引な行動とはまったく正反対に、優しい。彼の存在の根源となるもの。
ああ、ああ、もう、反則だ、この人たらし!
ハイデリヒは思わず叫んだ。
「やめて、兄さん!」
「…………………」
先ほどまでの嵐のような追撃が、その途端、糸が切れた人形のように動かなくなった。エドワードは目をまんまるくして、何とも言えない顔で、ハイデリヒの表情を見つめている。
ハイデリヒは早口で言い募った。
「ねぇ、やめて? 兄さん。弟に似てる僕にこんなことするの? しないよね? 僕の兄さんだもんね?」
ハイデリヒが固まったエドワードの顔を覗き込むと、エドワードはふい、と顔を逸らした。それから、それはそれは大きく肩で息を吸い込んで、長々と吐いた。
ハイデリヒはようやく我に返って、きちんとエドワードの顔を見ると、これってどうなの、と問いかけたくなるくらい情けないことこの上ない表情をしていた。
眉毛は垂れて、皺が寄って、口はへの字、肩を落として更にため息。エドワードは完全に無言でよろよろとハイデリヒの上から体を退かし、ベッドから降りた。
「えっ……あ、……っと……に、兄さん?」
またよろよろとハイデリヒの前に顔を持っていき、情けない顔で、それ以上ゆーな、と小さく言い、ハイデリヒの肩をぽんぽんと叩いた。それからはだけたハイデリヒのシャツのボタンを全部留めてやり、ハイデリヒの肩に両手を突いて上半身を起こし(要するにハイデリヒの肩が支え)、自分の首に手を置いてごきごきと捻り、またため息をついた。
「あ、あの…エドワード…?」
「萎えた。帰る」
「へ……?」
ハイデリヒは一気に不安になった。彼の背中をこういう時に見るのは嫌いだった。だんだん小さくなる背中も。
「エドワード、ごめん」
エドワードは振り向いて、少しくちびるを尖らせた。
「何でお前、謝ってんの?」
「僕、エドワードを傷付けたんだよね」
「……いや……べつに……」
本当にそうでないような口ぶりでエドワードが言うので、ハイデリヒは少しだけ安堵してから、更に首を傾げた。
「そんなに嫌だった?」
「まーな〜……だってなんつーか……」
エドワードは少し考えて頭をかいて、ぼそっと呟いた。
「俺がアルを襲ってる感じして一瞬うんざりした」
「エドワードは弟にそんなことしないの?」
「いや、しねぇよ。お前俺のことなんだと思ってたんだ……」
「え? いや、だって、あの……僕のこと、エドワードが弟に似てるっていうし、名前も一緒だって言うし、会いたくても会えないっていうし、だから」
「お前はアルじゃねえだろ」
エドワードのその声は、何を咎めるでもなく。
「お前はアルじゃない。なんか……何だよお前、そんな風に思ってたのか?」
「…………ごめんなさい」
「ごめんなさいって、お前な……」
エドワードは腰に手を当ててため息をつき、思い直したように言った。
「そうだな。この件については謝ってもらわなきゃな」
その言葉で、ハイデリヒはびくりとした。何でもないようにエドワードは言ったが、自分はやはりエドワードを傷付けたのだ。
「ごめんなさい、エドワード」
シャツを掴んで泣きそうになっているハイデリヒを見て、エドワードはぎょっとして慌ててハイデリヒに近寄る。
「お……おいおい、泣くなよ」
「……な……いてないよ」
「いや、お前、すっごい今にも泣き出しそうな顔で……」
「泣いてない。エドワード、ごめんね。もう絶対言わないから」
「お、おう……。…………ちっ」
エドワードはがりがりと頭を掻いて、がばりとハイデリヒを抱き締めた。あたたかなそのひとの腕はハイデリヒを少し驚かせたが、それ以上の安心をくれた。
「………かった」
「ん?」
「代わりじゃなくて、よかった……」
「ったく……このバカ……」
口調は乱暴だったが、それがエドワードらしくて、ぞんざいに思える愛撫さえもなぜか今は安らかになれて、ハイデリヒはすんすんと鼻をすすって静かに泣いた。エドワードはしばらく背中をあやすように撫でていてが、そのうち、ああもう! とぎゅうとハイデリヒを抱き締めた。
「えっ……な、なに?!」
「あーったくもう! こんなんじゃ何にも出来ねーだろ! ちくしょう……」
「う………」
「いいかハイデリヒ。お前はこういうこと全然判ってねぇと思うから安心して言えるんだが、お前は俺に振り回されてばかりだと思っているんだろうがそれは全然逆なんだぞ」
「………………???」
「…………………」
ちくしょうかわいい顔で首を傾げやがって。という言葉が聞こえたような気がしたが、ハイデリヒは先ほどから頭がうまく回っていないので、微妙にうなだれているエドワードの腕の中にただ居るしか出来ない。
あたたかい、エドワード。
何だかがっくりしているエドワードをよそに、ハイデリヒは自分が物凄く浮かれていることに気付いた。
エドワードに抱き締められているのだ。
何だかいい匂いもするし、エドワードの鼓動が判る。自分の鼓動もエドワードに伝わっているんだろうなと思ったら、顔が紅くなった。
ああ、しあわせ。
「判ってンのかぁ、ハイデリ―――」
「ん?」
自分の顔を覗き込んだエドワードは、ハイデリヒの顔を見て呼吸を止めた。それからなんともいえない表情になって、唇の端をわずかに歪ませながら、ハイデリヒと同じように顔を赤らめた。
「―――なんてカオしてんだ、テメェ………」
エドワードはゆっくりと手を伸ばし、ハイデリヒの頬を両手でそっと包み込んで、笑った。
「キスするぜ。………いや、キスする。お前の了解など得んぞ。問答無用でする」
「えっ……あの……えと、……うん」
戸惑いながら思わず頷いてしまったハイデリヒはしかし、少しもその言葉を後悔していなかった。驚いたのはエドワードのほうだった。
「なっ…何なんだお前、急に態度変わりやがって」
「キス……したいよ……エドワードと」
エドワードは唖然とした。ハイデリヒは思わず笑った。
この人のこんな顔も、好きだな。
目を閉じてその人を待つ時間に、ハイデリヒはその思いをじんと心に感じた。
もろてばっか悪いんでこれもさかきさまと東條さまに捧げます…す、すいませんもっとマシなものを書ければ良かったのですが…(>_<)今更エドリヒなんかいらんと思うんでさらっと流して下さいませ。ああもう駄文多謝ですm(__)m
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