echos.
凍える、という言葉は何だか弱々しくて嫌いだが、クソッ、今日ばかりはこんな寒さを認めざるを得ない。屑桐はどうしても外に出せないむき出しの手を、白いダウンジャケットのポケットに突っ込んだまま凍った道路をざくざくと音を立てて歩く。雪は降っていない。
「ちっ」
屑桐は誰が見ても不機嫌な顔をしていた。彼が「人は見かけで判断してはいけません」という道徳を思いきり分かりやすく表現している事を知るのは、彼がこれから逢いに行く男だ。信号を二つくらい越えたところで、駐車場でボール遊びをしている子供達が目に付いた。そのまま歩いてゆくと、何かが屑桐の膝の横に当たって足下に転がった。サッカーボールだ。屑桐は白い息を吐きながら辺りを見回す。駆けてくる子供を確認すると、そちらに蹴り返した。ありがとー、もっと奥でやれよ、喋る度に呼吸する度に白くまとわりつく空気が鬱陶しく、屑桐はかすかに笑った。夕方6時にかすみ公園の噴水の前で、とアイツは言ったが、噴水が凍っていれば面白いのにと意地の悪い事を考える。噴水がなかったから場所が判らなかったと言い訳を造っておいて、アイツがオレの不在を悲しんでいる姿を隠れて見ているのもいい。
「無涯!」
冬の6時は街灯が付いていても暗い。ざくざくと小気味良い音を立てて走ってくる男は、だが、声を聞いただけで判る。屑桐は目を見開いて、それから眉を寄せた。自分の無意味な、大事な人を悲しませるだけの、何のメリットもない莫迦な望みが適わなくて良かったと、すぐに安堵した。自分でそれを自覚した屑桐の表情は、不機嫌中の不機嫌に変わる。
「何でテメエがここにいる」
「だって、早く来過ぎてしまったみたいで。迎えに来たんだ」
迎えに来たって、何キロ離れてると思ってるんだ? 屑桐は呆れたが、牛尾は屑桐がまるでにこにこと笑っているように話す。端から見れば、迂闊に触れようものなら爆発しそうな危険物に、防衛にまるで意味を為さないフリル付きのエプロンで応対しているかのような図だ。足を止めない屑桐に牛尾は並んで歩いた。牛尾は屑桐の腕を取る。腕を組むつもりで掴んだわけではなかったが、屑桐の腕は、牛尾の予想を裏切って、牛尾が引っ張るままにポケットから滑り落ちる。牛尾は屑桐の手を握った。屑桐はぎょっとした。
「オマエ、……冷たすぎるぞ」
そう? と笑う牛尾の左手を、屑桐は自分の右のてのひらで握り込んで無言で歩く。
「無涯は暖かいね」
「……………」
流石に、両方の手をそうしてやることは彼には難題だったが、牛尾はそれでも軽い足取りで、長身の屑桐の歩幅に合わせて幸福そうに歩いた。時々確かめるように屑桐のてのひらをぎゅっと掴み直すので、屑桐にはそれがくすぐったかった。
「で、その公園に行けばどうなるんだ」
「焦らないで、行けば判るんだから」
牛尾が見せたいものがあると言った。指定日時は12/24で、屑桐でも一瞬躊躇う日付けだ。牛尾がこの日やその他のものに特別な感情を見せる事は知っていたが、はっきり言ってそれに付き合うほど自分はお人好しじゃない。だが今牛尾と一緒にいることは、屑桐の中では矛盾しないのだった。
「さあ、着いた」
「でけえツリーだな」
「これからね、このツリーにとても綺麗なイルミネーションが灯るんだよ」
本番は明日の25日らしいのだが、牛尾はどこからか、今日の試験点灯の情報を聞き付けたらしい。本番は人込みで凄いと思って今日にしたんだ、そういうの嫌いだろう? と牛尾はにこにこしながら、目の前のツリーを眺めている。牛尾と同じようにその情報を聞き付けたらしいカップルや家族連れがちらほらと集まっていて、仕掛けのスタッフ達が忙しそうにしているのを見ながら、屑桐はいつ点灯するんだと聞いた。
「いつだろうね?」
「知らねえのか」
「うん、ただの試しらしいから」
ここで待ってたら灯るよ、と牛尾は握った屑桐の手を揺らした。公園の街灯に照らされて浮かび上がるクリスマスツリーは、たくさんの飾りと光の点らない電球を背負っている。
「こんな中、何時間も待ってられねえぞ」
「無涯、寒いかい?」
「お前はどうなんだ」
「うん、あんまり寒くないなぁ」
そう言えば自分もだと屑桐は思った。一人で歩いている時はあれほど肩を竦めていたのだが。……『一人で居る時は』? では、今寒くない理由は、
「きっと、無涯と一緒に居るからだね」
屑桐は唸るように呼吸をした。耳や頬に血が行くのが判る。え、何か言ったかい、覗き込むようにして尋ねる牛尾から逃げるように屑桐は横を向いた。夜で良かった。クソ。
「………熱くなって来た」
「ホントだ。無涯、手がカイロみたいだよ」
ぶすっとした顔で呟く屑桐に、何でかなぁ、と言って牛尾は可笑しそうに笑う。
時々、どうしようもない衝動に駆られる。この体温に、この一言に、この表情にこの仕草に、自分の中であるはずもなかった感情が揺さぶられて仕方がない。さっぱり判らない。苛立たしい。正体が判らない。これは何だ? どうすればいい? これほど困っているオレの気持ちを知りもせずにコイツは笑う。オレがどうしようもない気持ちを抱いている事に気付かず笑う。気付けバカ。いや、気付かなくていい。オレの傍に居ろ。傍に居れば許す。オレの気持ちをどうしようもなく揺らす事も、その穏やかな声も表情も、全部許そう。
だから、傍に居ろ。
繋いだ手を離す事は許さない。
「ああ、どうしようかなあ」
「何だ」
牛尾は深呼吸して、繋いだ手を愛おしそうに繋ぎ直して言った。
「こんなに長い間、僕の手を握っていてくれた事って無かったね」
「……ああ」
「どうしよう。君の手がこんなに気持ちいいなんて知らなかった。どうしよう、今夜僕、この手を離して寝られるかな」
「……は?」
「離したくないよ……」
牛尾は心底困ったように静かに苦笑して、屑桐の肩に顔を預けた。
「……牛尾、」
もう最後の方はほとんど熱に浮かされたような頭では聞き取れず、屑桐は掠れた声で牛尾の名を呼んだ。その途端。
世界が一気に光で満ち溢れる、回りの人々から歓声が漏れる、公園内の街灯が消され、おおきなクリスマスツリーのすべてに燦然と灯りがともる。うわあ、牛尾が目を開かせて喜びの声をあげる。
「すごい、すごいよ無涯、見て―――」
牛尾が言い終わらない内に、屑桐は繋いだ右手をぐいと引き、片方の手で牛尾の腰を抱き寄せた。
「無が、…………んっ」
屑桐には自分が何をしているのか、頭の角で事実だけが見える。牛尾の唇を、自分の唇で塞いでいる。どうして? 眩しい光に照らされながら、何も見えない。ただ唇に触れる、柔らかな温度がすべてで、屑桐の頭はくらくらと酩酊する。牛尾が身じろぎして、屑桐は一瞬離れてゆく恐怖に震える腕で、牛尾をきつく抱いた。
「………はっ」
呼吸が苦しくなって唇を離す。は、は、とお互いに浅く息を付き、屑桐は牛尾の目を見れずに斜めを向いた。どうしてこんなことをしたのか判らない。繋いだ手は離せない。何も見えなかった感覚がすべて戻ってくる。牛尾の清潔な香り、刺すような低い気温、繋いだてのひらのぬくもり。息を整えながら、すぐ近くに感じる牛尾の視線に耐え切れず、ようやく瞳をあわせる。むがい、と牛尾の唇は動いた。ぎゅう、と手を握られ、屑桐は牛尾の瞳の焦点がどこか定まっていない事に気付いた。
「無涯……」
牛尾が目を伏せた。近付いてくる牛尾の唇をぼうっとして屑桐は見つめる。牛尾は屑桐の背に腕を回して抱き着き、そのまま吸い寄せられるように唇をもう一度合わせた。目を閉じる瞬間、ツリーのイルミネーションが色とりどりに変化してゆくのが見えた。回りの歓声も、もう、聞こえない。
「無涯は暖かいね」
「人をカイロ扱いするな」
「カイロよりも無涯がいいよ」
屑桐は絶句して、何も言えないので低く唸った。抱き締めた腕を強くして、ほざけ、とだけ呟くと、牛尾はくすりと笑って屑桐の胸に深く顔を埋める。クリスマスツリーはとうに光が消えていて、回りのギャラリーも跡形も無く立ち去った後だ。どうやら無事に試験点灯は成功したらしい。もっとも、屑桐にはいつ光が灯っていつ消えたのか、まったく記憶に無かった。
抱き締めても牛尾は抵抗しない。屑桐がした事も何も聞いて来ない。まだ冷めない夢の中をふらふらとしているような感じもするが、確かに自分も牛尾もここにいるのだ。夢ではない。凍り付く寒さの中でお互いの体温だけがはっきりしているのが、屑桐には安心できた。いつものままだ。牛尾は傍にいる。この手に抱いている。
「綺麗だったね」
「まぁな」
「でも何だか、あんまり覚えて無いな」
「………」
「無涯」
「何だ」
「もう一度、その……していいかい?」
「………嫌だと言ったら?」
「嫌なのかい?」
「嫌だと言ったら、どうするんだ」
言ってしまって屑桐は焦った。牛尾の大きな瞳が潤んでいる。
「泣くな。嫌じゃねえ」
「じゃあどうして」
「……………息が」
「何?」
屑桐は顔を真っ赤にしてぼそぼそと呟いた。息が出来ねえんだよ。実は唇を離した後、とても苦しかった事に気付いた。呼吸を止めていたから当然だ。
「……無涯、鼻で息して?」
一瞬屑桐は考えを巡らせた。鼻で。そうか。考えたことなかった。それなら確かに息が詰まる事はなさそうだ。牛尾はくすくすと笑っている。
「何がおかしい」
「だって、無涯の顔、面白いんだもん……『納得しました!』っていう顔、思いっきりしてる」
「……テメエ。大体何でそんな事知ってる」
屑桐は頬を染めて、笑う牛尾の顔を少し乱暴に両手で掴んでこちらに向けさせた。牛尾はひとしきり笑ったあと、屑桐をじっと見つめて言った。
「想像してたんだ。君とキスすることを」
身を裂く程冷たい風が吹く。牛尾の色素の薄い髪も自分の黒髪も乱れされるが、屑桐は少しも寒く感じない。
「嬉しかった」
牛尾が目を閉じる。屑桐は目を伏せ、静かに近付いて、唇を落とした。ざっと強く風が吹き、クリスマスツリーを飾りごと揺らした。
お前でなければ、という選択肢は有り得ない。だから許す。どうしようもない気持ちはこのままでいい。オレが困っている時は気付け、バカ。最後まで気付かなくても離さないから、気付け。バカ。
「傍にいたいよ」
「傍にいろ」
「いなくなったら?」
「知らん。見つけて捕まえるだけだ」
牛尾は安心したように良かった、と言って笑った。
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