牛尾御門というやつはおかしな奴で、俺がどれだけ不機嫌そうにしていても傍らに居て微笑んでいる。俺のことを気にしていないのかと思うとそうではなく、君と一緒にいると落ち着くよ、と抜かしやがる。一番初めは何だこいつは、と思った。俺の唯一の憩いの場、屋上に突然現れやがったので、普通に「邪魔だ、消えろ」と言ったのだ。するとヤツは今ではもう思い出せないような些細な話題を唐突に出して、俺と会話をし始めた。この俺と会話だ。それもかなりまともに。自然に。俺がどれだけ突き放すように言葉を吐いても、奴の態度は変わらなかった。
前に一度だけ「俺はお前と居て落ち着かん」と言ってやったら、子犬が棒でしばかれたような顔をしてごめんね、判らなかったよと言ってとぼとぼと俺から離れていった。あの時の俺の動揺っぷりは記憶の隅々から抹消したい一ページなのだが、とにかく「嘘だ、冗談だ」と言ってヤツの腕を捕まえると(落ち着かないのは嘘でも冗談でもなかったが)振り向いて本当?と聞く。その時の奴の表情を見て――ああ、上手く言葉に出来ないが――ぐさ、と蜂蜜だか砂糖だかで出来た矢のようなものが俺の胸に刺さった気がした。全身に広がってゆく甘ったるい感覚に胸焼けを起こしながら、本当だ、となんとか言葉を紡ぎ出すと、奴は良かった、と言って笑った。今度は胸に火みたいな熱い矢をぶちこまれた気分になった。なんて理不尽なんだと思った。
The dust waltz.
Do not wait for the last judgment.
「ねえ牛尾くん、今日は部活ないでしょ、一緒に帰りましょうよ」
「あ、すまない。今日は先約があるんだ」
「判った。ケイくんでしょ」
「ええと」
「隠さなくってもいいでしょ、仲良きことは美しきかな」
「どうして君たちは彼のことをケイくんって呼ぶんだい?」
「だって、名前で呼ぶより、そっちのがしっくりくるのよ」
「そうかなぁ」
君には判らないと思うけどね、牛尾御門のクラスメイトの女の子はそう言って片目を瞑った。
「どうして僕が判らないって判るんだい?」
「だって、判ったらケイくんと一緒に帰ったりしてないわ」
「???」
「わたしは、君が判らないままでいてもいいと思うし、ケイくんも君が判らないままの方がいいと思ってるかも知れない。けどこのままじゃ話が進まないから言うわね。ケイくんはね、どこか近付き難いとこがあるのよ。名前も口にしたら何となく恐くって、誰かがイニシャルで呼んだらそれで定着しちゃったの」
「判んないなあ」
「ふふ、でしょうね! 無駄話だったわね、さすがはみんなのアイドル、牛尾くんだわ」
女の子は楽しそうに笑って、牛尾の肩を叩いた。
「行ってらっしゃい、ケイくんとこに! 隣のクラスもちょうど終わってる頃よ」
「って、言われちゃったんだけど」
二人揃って下校途中、その話を聞かされた屑桐無涯は何だか鼻がムズムズしたが、その訳は不明だった。
「君がとっつきにくいって思われてるなんて初めて知ったよ。君は知ってた?」
「知ってる」
「えーっ?! どうして言ってくれなかったんだい」
「言ってどうなる」
「……そうだね、どうするんだろう」
バカか、コイツ。
屑桐は呆れて無言になった。別に面と向かってバカと言ってやってもいいのだが、多分無駄だ。バカにつける薬はないと言うのが、牛尾を見ていると良く判る。頭は悪くないのに何でこんなにバカなんだろう。どうにかならないんだろうか。
こういう時、屑桐は無性にイライラする。イライラと言っても、クラスメイトが程度の低いうわさ話をしているのが聞こえて来たり、上手く投げられないスランプが続いたり、そういった時のイライラとはまた感じが違う。腹は立たないのだ。いや、立つには立つが、気分はそこまで悪くない。違う意味で腹が立っている。違う意味というのが良く判らないのだが。
「…バカだな、お前は」
無駄だと判っていてもやはり言いたい。ほぼ無意識に屑桐が言うと、牛尾はきょと、として屑桐を見上げた。
「変なの」
「何が?」
「君にバカって言われると、バカって言われた気がしない」
「………」
言われてみればそうかもしれない、と屑桐は思った。確かにそうだ。バカと言おうとして言ったのではない。何で判るんだろう。
「……じゃあ何て言われた気になるんだ」
「えっ? えーとね、何だろう。何だか嬉しくなるよ」
「お前はバカと言われて嬉しいのか?」
「違うってば」
うまく言えないなあ、と牛尾は頬を膨らませた。
「僕、あんまりバカって言われたことないんだけど、その言葉を言われたら多分嫌な気持ちになると思ってたんだ。でも君に言われるとね、全然そんな事ないんだねぇ」
牛尾の言葉を聞きながら、屑桐は頬に血が昇るのが分った。俺はコイツほどバカじゃないから判る。図星を指されたからだ!
他のことはまったくなのに、こういうことに限っては屑桐が青ざめるほど的確で真実この上ない科白を真顔で吐く。
牛尾御門の恐いところだ。
何がどう図星だったのか、聡明な屑桐なら判るはずだが論点を牛尾にすり替えて、あえて追求はしないのだった。
この天然野郎め。天然記念物め!
隣でぶつぶつ言っている屑桐に向かって、牛尾ははたと気付いたように、にっこりと微笑んだ。
「でも、君がとっつきにくいっていうなら、僕はとても得してるよ」
「…………何でだ」
「君と長く一緒にいられるでしょ」
「ああ…………、ああ?」
屑桐の聡明さは時折、加速的に退化する。今、彼は必死で自らの動揺の理由を探っているが、判らない。
あまりにバカバカしいことを言われたので頭がついてこないんだろう。顔が火照っているのが説明着かないが、まあきっとそうだそうに違いない。
そのうち何だか理不尽なことに気付いて、何となく腹が立って来た屑桐だった。
コイツのこういう部分は見ていて腹が立つ。他のやつにもこんなヌケた反応してねえだろうな。俺の前だけで十分だ。
屑桐は屑桐で、この男に関わっている自分が、段々感化されて来ていることを自覚している。呆れ返る性格の奴なら離れればいい。だが自分は牛尾と一緒にいる。それが何を意味するか屑桐は何となく判っているからイライラするのだ。イライラもするし、そわそわするし、落ち着かないし、落ち着くし。最近の自分は良く判らなくなって来ている。
コイツのせいだ。
頼むから自覚してくれ。自分のことも、回りのことも、もう少し良く考えて接しないと、いつか絶対酷い目に遭う。いや、俺が遭わせない。遭わせんぞ、絶対。
「牛尾、今から俺が言うことを良く聞けよ」
「うん?」
「なるべく俺の傍を離れるな。判らないことがあったらまず俺に聞け。知らない人には金は貰ってもついて行くな。俺に口答えするな」
「…なんか、最後のだけ理不尽だ」
「黙って聞け。暗くなったらすぐ帰る。無闇矢鱈に笑顔を振りまくな、出来るだけ俺の傍にいろ。とにかくこれからずっと、ありとあらゆることに気をつけろよ。困ったら兄ちゃんに相談するんだ」
「……兄ちゃんって誰?」
「(しまった)……いや、俺に相談しろ。いいな。判ったな」
牛尾が聞いているのか聞いていないのか判らないような顔でじっと屑桐を見つめているので、屑桐は歩みを止めて牛尾の肩に手を置き、言った。
「返事は?」
「え。……あ、はいっ」
「よろしい」
「……ふふ、何だか本当にお兄ちゃんみたいだね」
そう云って笑った牛尾の顏は(ああ、言葉にしたくないが!)天使のようで、屑桐は思わず顔を前に向けた。
要するに、二人ともバカなのであった。