身の灼けるような恋などしたことがない。
 だがそれでも、アルフォンスを想うとき、この身の細胞一つ一つが狂おしく締め付けられるとき、エドワードは、これが恋でなければ自分は一生恋を知らなくていいと思うのだ。

















ア ン ナ ト ル テ は と け て ゆ く


















 アルフォンスがこのところ研究に没頭している。物理的なことはひととおり終わったらしく、今は本に埋もれて昼夜分かたぬまとめの執筆活動をしている。
 エドワードとアルフォンスは錬金術師で、一緒に暮らしている上に兄弟で、何かとお互いの研究のことは筒抜けだろうと世間には思われていたが、こう見えて彼らは個人主義だ。一通り終わってしまうまでは情報交換はしないままで、まとめ終えてようやく雑談に入る。別に対抗意識などではなくてそんな暇がないだけのことで、ひとつのことは自分だけでやってしまった方が実は効率もいい。大体研究の内容も時期も、兄弟はてんでバラバラにやっている。
 そういうわけでエドワードはいま、時間を持て余していた。



 気分転換にと入れてやった紅茶をアルフォンスの机の上において盗み見た、そのときの横顔を思い出していた。真剣だった。エドワードは自室で机の前の椅子に足を組んで座り、辞書と向かい合いながら辞書に向かって微笑んだ。弟のああいう顔は滅多に見られない。エドワードの数少ない、気に入っているもののひとつだった。



 隣で何やら叫び声が聞こえた。かすかに、終わった、と聞き取れたので、エドワードは立ち上がって部屋から出て、アルフォンスの部屋のドアをノックした。
「うぉーい。どーした」
「終わった終わった終わりましたーあー寝ますー」
 叫びながらドアが開けられた。出てきたアルフォンスを見てエドワードは苦笑した。男前の顔が見る影もなく憔悴しきっている。少し胸が熱くなった。要するにそんな顔も自分は好きだという事だ。
 アルフォンスはそれでも笑って言った。
「上手くいくようにって、祈っててくれたんでしょ? ありがと。ボクはこれから泥のよーに寝ます」
「おう、お疲れ。洗濯モンとかあったら出しとけよ」
「あー分けなきゃいけないからあとでいいよ自分でします。とりあえず寝る」
 有無を言わせずそこまで言って、アルフォンスはそのままドアを閉めるかと思いきや、エドワードの顔をじっと見つめた。エドワードも何かと思って見つめる。
 ドアノブを持ったアルフォンスの手が少し震えているのを知って、エドワードはそちらを見つめたが、途端アルフォンスは大きな溜息をついて振り仰ぎ、おやすみ、ごめん、じゃあね、と言って俯いたまま、表情を見せぬままひらひらと手を振ってドアを閉めた。



 何かを期待していたわけではない。研究の一区切りが終わった後は一日といわず二日三日寝てごろごろしているのを自分に許すのが兄弟の習いであるので、アルフォンスの行動にケチを付ける気はさらさらなかった。だが自室まで戻り、ドアノブに手をかけたエドワードは不機嫌だった。
(……んだよ、久々にオレの顔見たくせに)
(キスくらい、したかったな)

 エドワードは一瞬頭に浮かんだその考えの意味するところを顧みて、何故か顔から火が出るような思いでアルフォンスの部屋を後にした。



 キスなど何度もしている。弟、アルフォンスと一線を越えてしまう以前にも、恋人がするようなものすらとうにしていた。
 今自分が思ったことはそういう類のものではないということを、自分で判っているので、顔から火が出るような思いがしたのだろう。エドワードはまた信号のように顔色をころころ変えた。
(落ち着けっつーの。なんでオレ、こんな、………………)

 エドワードはすっかり変わってしまった。あの夜、アルフォンスを酔っ払いに変身させてしまったのは故意ではないが、アルフォンスにそうやって堕ちていくことを予想していなかったと言えば嘘になる。正直に言ってしまえば、予感ではなく確信だった。
 アルフォンスが愛おしい。何もかも彼がいないと世界が薄い。アルフォンスといるときに感じる、この甘い幸せはどうだ? これではまるで―――。
「クソッ」
 エドワードは自室の扉を後ろ手で閉めてドアに凭れて天井を仰いだ。悔しいのではない。どうしていいか判らないのでもない。判っていて止められなくて、それでも面白いと心のどこかで思っている自分をどうしようもないと振り返っている。
 本当は、何も変わってはいないのだ。認められないだけだ。こんな気持ちは前からずっと持っていた。

 体が、熱い。

 コンコン、とドアが叩かれて、エドワードはびくりとした。誰だ、なんてこの家にはアルフォンスしかいないわけで。
「兄さ〜ん……」
「あ、あぁ〜?」
 動揺を隠して不機嫌そうに言いながらドアを開けると、さっきよりよっぽど生気のない顔をしてアルフォンスが突っ立っていた。が、エドワードの顔を見た途端、ほとんどもたれかかるようにして無言でエドワードに覆い被さってきた。自分で体重を支える気がまったくないアルフォンスを、エドワードは両手を回して支えた。うるさいくらい心臓が音を立てていて、絶対聞こえる、バレる、判っていてもエドワードは思わずアルフォンスを抱きしめてしまう。久々の弟のぬくもりは、エドワードの体温を沸騰させた。
「なんだなんだおまえ、寝たんじゃなかったのか」
 少しばかり上ずった自分の台詞にエドワードは更に動揺したが、アルフォンスはただ無言でエドワードを抱き締めている。というかしがみ付いている。
「…………、り………」
「あぁ?」
「むり…………」
「何が」
「………兄さんに触らないと無理。寝れない。げんかい」
「…………触ってんじゃねぇか…………」
 エドワードは掠れる声で突っ込みを入れた。
「足りない………抱きたい。お願い」
 アルフォンスはエドワードの顔を両手で挟み込み、泣き出しそうな顔で懇願した。
(ああ、ああ、もう、この野郎、これで判っててやってたら半殺しだ)
 愛しくてどうにかなりそうで、エドワードはとても何か喋れるような状況ではなかった。

 どうにでもしてくれ。

(あ、今の、オレっぽい)
 エドワードは心の中で笑った。

 そうだ、多分これが本来の自分なのだ。こんな臆病で今まで良く生きてこられたな、とも思う。覚悟してアルフォンスと繋がってしまうことで、別の意味で自分が強くなっていく。強くならざるをえない。なるほどこれが兄弟だ。
 だが、おまえのおかげだ、などとは言わない。自分は兄なのだ。意地がある。信念がある。馬鹿らしくともこれがアイデンティティだ。自分に素直になってやる。
 アルフォンスはそのままぐいぐいとエドワードを後ろへ押し遣り、エドワードは押されるまま部屋のわきのベッドまで後退した。がつ、と足がベッドの枠に引っかかったところで、アルフォンスがエドワードを押し倒した形で倒れ込む。
「お願い兄さん。お願いします」
 ぎゅうっとエドワードの首っ玉にしがみついて、アルフォンスは喉から搾り出すような、情けない声を出した。愛しくて眩暈がした。
「いーよ。触れよ」
 ガバッとアルフォンスがエドワードの顔を覗き込んだ。
「い……いいよって言った? 聞き間違い?」
「いや、聞き間違いじゃねえ。いいよって言った」
「何がいいの? あの、していいの? さ、触るだけじゃなくて、えと、いろいろするよ?」
「判ってるっつうの。前もしただろ」
「……い、一年、まだ、経ってないよ? ほんとにいいの?」
「しつこい」
 目の前で馬鹿面を晒す愛しい弟の胸倉をぐいと掴み、その唇に噛み付いた。ぺろり、とひと舐めして離れる。
「オレがしたいんだよ。テメーが乗り気じゃねえんなら、オレが突っ込ませてもらうぜ」
「あ……え……どどどどど、どっちかって言うと、ボクが突っ込ませて頂きたいです……」
「なら、そうしろ」
 エドワードは目を細めて笑った。
 アルフォンスは一瞬後、感極まったのかもう無言でエドワードに沈み込み、抱き締めて、エドワードもそのまま目を閉じた。アルフォンスは熱かった。熱が全身に染み渡り、エドワードの体中が甘く甘く溶かし出してゆくようだった。もうダメだ、とエドワードは目を瞑ってアルフォンスを感じた。

 ………と。
 一瞬後、アルフォンスの体重が急に重くなった。少しそのまま待ってみたが、様子がおかしい。
「アルフォンス?」
 返事はなく、どんどん重みを増していく。つぶされる、とエドワードが体を起こすと、そのままアルフォンスの体がエドワードの体の上からずるりと落ちた。
(…………え?)
 うつぶせのアルフォンスの肩を持ち上げ、顔を見てみると。
 目を瞑っている。寝息を立てて、寝ている。
(ここまできて、おまえ………)
 なるほど確かに、限界だったようだ。長い間触れていない兄の体を求めて最後の力を振り絞ってやってきて、お伺いをたててうっかり許しが出て、嬉しさと安堵のあまりのこの愛しい醜態。アルフォンス。
 エドワードの唇の端が堪え切れないといったように持ち上がった。エドワードは息を思い切り吸い込んで、意識のないアルフォンスを両手でガバッと力いっぱい抱き締めた。

 ああ、ああ、愛しい、なんて可愛い、アルフォンス。もう降参だ。オレはこんなに可愛い弟を見たことがない。どうしたらいい? どうしたらいいか判らないから、好きにさせてもらおう。これからオレがおまえにすることを責めることはさせない。オレはもうおまえに降参しているからだ。

 エドワードは笑って、安らかな寝息をたてるアルフォンスのくちびるに、そっとキスをした。





 アルフォンスが勢い良く起き上がると、隣にはこれまた寝起きらしいエドワードが、上体を起こして頭を掻きながらこちらを見ていた。アルフォンスは何を思ったか、寝ぼけ眼でまくしたてた。
「ね…ね…寝ちゃってた! ボク! どうしよう、ごめんなさい、……あれ?」
「……何がごめんなさいだ? 唐突に」
「えーと……いや……?」
「ゆっくり寝られたろう? 兄さんのベッドは心地良いだろう」
「何でボクが兄さんの部屋で……」
 アルフォンスはしばらく言葉を切って、そのままの表情で考え込んだ。気を失う前のことを必死で思い出したらしく、みるみるうちに表情を変えて、絶叫。
「や……………っぱり昨日何にもしてないーーー!!」
「おまえは起き立てにそれかよ」
 エドワードはクスクス笑った。笑ってからわざとらしく溜息をついてみせる。
「なぁ、アルフォンス」
「ありえないほんともうボクって……あ、えっ、はい」
「………一人ですんのって、つまんねぇなァ………」
 アルフォンスが固まった。
「…………え……も、しかし、て、兄さん、ひとりで、って」
 神にでも請うかのようにエドワードを涙目で見上げてくるアルフォンスに、心の底から愛しさがこみ上げる。今すぐ押し倒して口づけたい欲望をなんとかやり過ごして、毛布をばさりと跳ね上げてベッドから降りる。
「に、兄さん!」
「メシ食ったら風呂入って歯ァ磨いて戸締り確認してカーテン閉めて電話線を切れ」
「……は? え……どっか行くの?」
 エドワードは首をこきこきと捻りながらドアノブに手をかけた。振り返って、混乱と不安の表情を見せるアルフォンスにニヤリと笑って見せた。
「おう」
「ど、どこに? 兄さんひとりで?」
「いんや。おまえと、天国にな」