アナスタシアの弾くピアノの音を聞いている。僕はうっとりと目を閉じた。












「アルフォンス、アルフォンス、どうしたの、その傷は」
 アナスタシアが目を見開いてこちらを見ているのを、僕は悪戯がばれたような子供の気持ちで答えた。
 この音楽室は隙間風が酷かったが、走ってきた僕には涼しく思えた。それで少し襟をくつろげたのがいけなかったらしい。アナスタシアが僕に近づく時、ピアノは彼女にぶつかってばぁん、と叫ぶのだ。
「ああ……うん、これは」
「これは」
 アナスタシアは反芻する。貴方は嘘なんか付けないでしょうって、顔に書いてある。今までとても可愛い顔で僕を癒していてくれた天使が、僕を裁く顔をする。
「もしかして、エドワードなの。エドワードなんでしょう」
「アナスタシアにはみんなわかってしまうんだね」
「わたしはあなたの気持ちが判らないわ」
 まるで泣き出しそうな顔で傷跡を指でなぞり、自分のことのように顔を歪めた。
「これは僕がつけてと頼んだんだ」
「ああ、アルフォンス、アルフォンス。わたしは貴方がどこかへ行ってしまうのを一番恐れるわ」
「どこへも行かないよ。だからこその傷なのだから」
 僕はちいさなアナスタシアの肩を抱き締めて、その髪にキスをした。






 満月の夜、三日月の夜。風の吹く夜、風のない夜。こういう時はいつもそんな夜で、僕はすっかり月の満ち欠けにも興味を持ってしまった。
 僕がエドワードに抱かれる時は大抵すこし乱暴にされる。僕がエドワードをもっとも好ましいと感じる時はこの時で、シャツのボタンが音を立てて外れたときなど、それだけで頭の張り詰めた糸がぷつんと途切れた。
「エド…ワード…エドワード」
 僕は僕の望むように手酷く扱われながら、涙の溢れる瞳でエドワードに懇願する。
「噛んで。エドワード」
 エドワードの、見開いた瞳が好きだった。
「酷く噛んで。跡をつけて、ねぇ」
 エドワードの、しばらく目を見開いて、わずかに震えだす唇も、僕の心をなぜか落ち着かせた。エドワードが短く息を吸う。獣のように噛み付かれ、血の滴る皮膚を感じる。
「もっと……もっと、エドワード。一生消えない傷をつけて」
「ハイデリヒ……」
「貴方は僕の中から消え去ったりはしない。そうでしょう、エドワード」
 肉の裂かれる音で、僕は眠りに付くことができる。

「うれしい、エドワード………」



 そうやって出来た傷を毎日なぞって、脳天に突き抜ける痛みで僕は生きている。エドワードがここにいることを自分に信じさせる。エドワードがどこかへ行ってしまっても自分が生きていられるように。この傷がなくなる時が最後だ。






 ねえアナスタシア。この気持ちは君には一生判らないほうがいい。