好きで好きで好きでどうしようもないんですけどどうしたらいいの?








listen to the swallowtail's rhetoric







 本の内容が頭に入らなくなってくるのは非常に悪い兆候だ。特にこういう昼下がり、ソファに寝そべり、生活の何の心配もしなくていい、満たされたこの状況。ボクは満たされている、何の不満もない。何の不満もないのだ。生きるのに必要な誰かの愛さえも、ボクは手に入れている。それはボクが望んだものじゃなく、その人が自分の意思で持っているものだ。その人もボクも、それが未来永劫無くならないと信じている。在って当たり前と思っている。だから何の心配もない。幸せもののボク。

 ボクは眩暈がした。ダメだ、本当に何も判らない。最初は確かに面白く思って読み始めたというのに、何が書いてあるかさえ判らなくなってきた。バカだなぁ、何を考えているんだろう、ボクは。こんなに幸せな人間がこの世のどこにいるというんだろう。一番大切な人が、未来永劫、ボクのそばにいてくれるというのに。

 バカだなあ。この大切さを判らないなんて、一度死んでしまえば判るんじゃないか? でもダメだね、死んでしまったら怒られるよ。ボクの大切な人はそんなこと絶対に望まない。ボクのかわいいひと。好きで好きで好きでどうしようもない、世界で一番大切な人。この人さえいたら他に何もいらないけど、それを言ったらすぐに怒るんだ。かわいいなあ。どうしてこんなに可愛いんだろう。どうしてこんなに好きなんだろう。どうしてこんなに幸せなんだろう。どうしてこんなに、どうして、









 エドワードが居間のドアを開けると、アルフォンスはソファに突っ伏していた。手に本があるので、読んでいるうちに寝てしまったんだろうなと思いながら台所に向かい、冷蔵庫を開ける。
「アルフォンスー、何か飲むか?」
「……ああ、うん。ありがと、いいや」
「起きてたのか」
「うん」
 エドワードは何となく違和感を覚えた。どこがとは言わないが、今まで人生のほぼ同じ時間を共有してきた人間なのだ、僅かな違いでもふと気にかかる。
「……ほらよ」
 エドワードはアルフォンスの座ったソファに腰掛けて、水の入ったカップを差し出した。
 アルフォンスは泣いていた。
 エドワードはカップをテーブルにおいてアルフォンスを見つめた。確かに泣いている。
「おい……」
「ん?」
「何かあったのか」
「え? ああ、いや……うん。何だろねコレ。あは」
「いや、何だろじゃねぇよ、何かあったのかよ」
「何でもないよ」
「あのなぁアル、何でもなくて人が泣けるか。つーかお前の泣き顔なんてマジで久々に見たぜ。どうしたんだよ」
「何でもないよ」
「アールー」
 エドワードが低い声で咎めると、アルフォンスは何故か、ぽろぽろと涙を零しながら、笑った。
「兄さん」
「……んだよ」
「兄さん……」
「………」
 アルフォンスの唇が何かのかたちに動くのをエドワードは確かに見た。
「あのね、幸せすぎて泣いてるんだと思う」
「そうは見えねぇよ」
「酷いなぁ。……酷いよ、ホントに。……どうしてそこで納得してくれないかなぁ」
「納得出来ねぇもんは出来ねぇよ。マジで何なんだよお前。言ってくれねーとどうしようもないだろ」
「……オレに言えないことか、っていうのは言ってくれないんだよね」
「どういう意味だよ。……つーかお前の悩みを聞くのはオレの役目だろ。お前がオレに言えないことなんてあるのか? そっちの方がショックだぜ」
 エドワードがそう言うと、アルフォンスは更に涙を零して、嗚咽をあげ始めた。
「お、おいおい……アル、どうしたんだよホントに!!」
「し……っ信じ……っらんな……、なん……なんで……ひぐっ」
 エドワードは困り果てて、小さな子供のように泣きじゃくる自分の弟を見た。
「判ったよ……オレに言えないことなんだろ。いいよもう。誰か呼んで来てやるよ、ウィンリィかばっちゃんか、それとも大佐とか中尉とかの方が」
「違う……違う! 違う! そんなこと、……もう、どうでもいい、よっ……もう」
「なぁ…アル、オレほんとお前のこと心配なんだけど。オレどーしたらいいの?」
「兄さん……兄さん……」
「はい」
「兄さん……っっ、兄さ、兄さん、兄さん」
「……アル……」
 ただただ自分を呼んで、それでも求めようとしない弟にエドワードはそっと近付いて、抱き締めようとしたその途端。
「やだ!!」
 エドワードはあっけに取られて、涙を零したままエドワードを凝視しているアルフォンスを見た。打たれた猫のように体が固まっている。
「絶対にイヤだ……お願いだからそんなことしないで……!!」
「あ……悪かったよ、淋しいわけじゃないんだな」
「ご、ごめんね…違う、抱き締められるのがイヤなんじゃないんだ、ごめんなさい…振り解いたりして、ごめん…ごめんね?」
「いや…いいんだけどよ…」
 エドワードは、自分が傷付いていることをアルフォンスが判っていることにも違和感を覚えた。
「ごめん…何か、泣いててごめんなさい…兄さんが悪いわけじゃないから、ボクが勝手に泣いてるだけだから…ごめん……ごめんなさ……」
 アルフォンスはぼろぼろと涙を零した。エドワードは途方に暮れた。訳も話さない、抱き締めることも許されないならどうすればいいんだろう。
「わけ…判んねえ」
「うぐ…ひっく、どうも……っどうもしないでいい……っボク、も、わかんないから」
「判んねえのに泣いてんのか?」
「ん…ん……わかんない、自分がわかんない。ボク、兄さんがいて、こんなに幸せなのに、一体何を望んでるんだろう、バカみたい、これ以上幸せなことってないのに、最悪だよ、ほんと最悪だ、ねえ兄さん、ボク多分死んでも治らないよ」
「……………」
 アルフォンスはおおきく息をして、泣き止むように心がけた。喉が引き攣る音が聞こえるほどに深呼吸をするアルフォンスを、エドワードはじっと見つめた。そうする以外、何をすればいいか判らなかったのだ。
 アルフォンスはしばらくしてから、努めて静かに言った。
「……えへ、ごめん、ね……ボクの……中の何かが、ちょっと、切れちゃった…みたい…」
「何かって何だよ」
「わかんないけど、凄く汚い部分が溢れちゃったんだ、きっと」
「汚い部分?」
「うん。時々、こうなるんだ。ごめんね。傍にいてくれてありがとう……」
「収まった、のか?」
「多分……。ふふ、でも兄さんが傍にいるから、またいつ溢れちゃうか判んないなぁ」
 アルフォンスは泣き腫らした目で笑って、自分の膝を抱え込んだ。
「お前が泣いたのって、オレのせい?」
「ごめんなさい。傷付かないで…兄さんのせいじゃない」
「思いっきりオレのせいなんじゃねぇか……」
「ごめんなさい……兄さんが悪いんじゃないよ、ボクが」
「もういい! すげぇ腹立ってきた。訳わかんねえのがオレは一番腹が立つんだ。わかんなくてもいいから何でもいいから喋れ。オレが答えを見つける」
 アルフォンスはエドワードを見て、ゆっくり笑った。心の底から幸せそうに。何度か瞬きして、エドワードに向き直る。
「……ボク、兄さんのそういうところが好き」
「おう」
「大好き。好きで好きでどうしようもない。だから多分、溢れちゃうんだ。……ボクねぇ、兄さんに恋してるんだよ。兄弟の愛情じゃないんだよ。愛情かもしれないけど超えちゃってる」
「…おう」
 少し下唇を突き出す様は、彼が照れている事を示すサインだ。アルフォンスはまたも胸が詰まりそうになるのを、手で押さえながら、考えるように言葉を紡いだ。
「恋ってさ……怖い。熱くて冷たくてわくわくしてすごく悲しい。自分が自分じゃないみたい。世界が変になる。有り得ないことばかり考える」
「…うん」
「でもボクは特別だな…恋をしてる相手が、ボクの兄さんなんだもんね。一緒にいて当たり前の人に恋するのって、……幸せすぎて、……良く判んない……」
 アルフォンスはそこで言葉を閉じた。少し考えている。エドワードはじっと待った。
「ボクは……求め過ぎてる」
「何を?」
「ん、色々」
「色々じゃわかんねーっつの!」
「ごめんなさい、あの、決心付いたら言うから」
「今付けろ!」
 アルフォンスは頬を赤らめて、膝を抱え込んだ腕に顔を埋めた。
「……あの」
「おう」
「……兄さんに、凄く触りたい」
「……うん。つかそれはオレもだ」
「えっと……でも……ああもう、ぬか喜びさせないで、兄さんはそれは兄弟としてでしょ」
「まぁそうなんだけど」
「ボクのことめちゃくちゃにしたいとかは思わないでしょ」
「お、思う訳ないだろ……大事な弟に」
「……そこなんだよね。大事な大事なひとなのになんで壊したいって思うのかな」
「オレのこと、壊したいの?」
「時々思う……想像する。ほんとごめん。兄さん後悔しないでね、酷いこともたくさん考えてるんだ。でもボクは他にもバカなこと考えてるよ、兄さんがボクのこと好きになってくれたらとか……求め過ぎてる。今のままでも十分幸せなのに」
「ああ…そういうことか」
「判る? 多分それが…恋ってやつなんだね。自分が凄く汚い生き物に思えるよ。でもふとしたことで有り得ないくらい幸せになっちゃうんだけど、そういう時はそのことすらも全部吹っ飛んじゃうね……兄さんがボクを見て笑ってくれたりするだけで、天にも昇る気持ちになるんだ。ほんとバカみたいに、兄さんのこと全てがボクの感情を左右してる」
 アルフォンスはそう呟いて、また抱えた膝に顔を埋めて嗚咽を上げ始めた。
「ごめん……ほんとごめん。良く判んなくなってきた。兄さんが好き…もうどうしていいか判らない…」
「………………」
「兄さんに幸せになって欲しい…笑ってて欲しい…だけど時々どうしようもなくなる…からだじゅうを沸騰した血が暴れまわってるみたいになる。ボク…何を望んでるんだろ…」
「…………」
「ごめ……ごめ……なさ……ひぐ」
「アル、何かさ、オレ判ったかも」
「……なに、を?」
 エドワードは胡坐をかいて、少し身を乗り出した。
「お前さ、きっと愛とか恋とかの部分で行ったり来たりしてんじゃねぇ? 何かホラ、あるじゃん。恋ってエゴだとかゆーだろ。でもお前はオレを兄貴としても好きでいてくれてんならそれは愛であってさ、エゴじゃなくてさ。……矛盾してんじゃん。それで苦しいんだろ」
「………じゃあこれ、治んないね」
「……あー。治んないなぁ」
「どうしよ………兄さんごめん、ボク凄くうざいね」
「まぁしょうがねえっつうか……」
 エドワードは片手で頭を支えて息を吐いた。
「なぁ、アル。……オレ今お前のコトめちゃくちゃ抱き締めてやりてえんだけど、……お前の言う多分、愛の部分で。……お前それしたら傷付く……よな?」
 アルフォンスは涙で濡らした頬をあげてエドワードを見た。
「傷付いてもいい。兄さんが思ってること、してくれたらボクは幸せだよ」
「……お前、傷付くんだろう? それが幸せなのか?」
「幸せな傷だよ。……兄さんには判らないかもしれないけど、これだけは恋をしている者の特権だよ。……傷付いてもいい。正確に言うなら、ボクを傷付けてることを自覚した上で抱き締めて欲しい」
 アルフォンスは自嘲気味に笑った。
「これが、ボクの汚い部分」
 エドワードは目を伏せて、それからアルフォンスに近付いて、背中に腕を回し、全身で包み込むようにしっかりと抱き締めた。アルフォンスは震えて、知らず目が閉じられる。この世でたったひとつしかない愛しいいのち。体温。匂い。熱。
「………好き」
「…………」
「………好き。兄さん」
「泣くな」
「泣かせて」
「……泣くな」
「兄さんが優しくするから泣けるの」
「何言ってんだ。オレ、お前のコト傷付けてばっかじゃねえか」
「やめてよ、何勘違いしてるの? こっちがたくさん傷付けてるのに、兄さんにそんなこと思われたらこのうちを出て行きたくなる」
「あー……バカ。出て行くな。アホ。くそったれ……オレが泣くぞ!」
「行かないよ、行くわけないでしょ。そんなこと出来るわけがない」
「……ごめん」
「何で謝るのか判んない」
「……お前……傷付いても傷付いても、オレのせいでそんなに泣いても、オレのために傍にいてくれてるだろ」
 アルフォンスは抱き締められたまま、すうと溜息を零した。
「……バレてたか。でも、それは兄さんだけのためじゃないよ」
「嘘吐け。普通そんだけ辛かったら離れてるだろ。……お前、優しすぎるよ……」
「ばーか。ボクが離れたくないからに決まってるでしょ。……兄さん」
「………」
「兄さんは恋をしてないから判らないと思うけど、ボクは自分を曝け出したいから言うね。ボクは今凄く幸せだよ。何でか判る?」
「……判んねえ」
「兄さんは今、ボクのために泣いてくれてるでしょ。ボクのために感情が動いてるでしょ。たまらなく嬉しいよ。酷い人間だ。いとしいひとが泣いているのに物凄く嬉しいんだよ、震えてるの判る? 嬉しすぎて」
 エドワードの腕の力が強くなった。アルフォンスは目を閉じて言った。
「最低だ」
「いいよそれでも。……それでもお前はアルフォンスだ。オレ別に酷いとか思わねぇ」
 アルフォンスはそろそろと腕をエドワードの背に回した。ぎゅうと服を握り締める。エドワードの肩口に顔を埋める。痛いほどに抱き締める。
「やめてよ。好きすぎて死んじゃいそう」
「………どうしたらいいんだろうな………」
「このままでいいよ。……このままが一番いい」
「良くないじゃん…お前…」
「兄さんがいてくれたらそれでいい。……ふふ、そうやっていつもいつも元に戻るんだ。時々どうしようもなくなって溢れて泣いて、コレ何回目かなぁ。今までで一番幸せだよ。なんてったって兄さんに抱き締めて貰えてるんだから」
 エドワードは何も言わない。アルフォンスはひとつ涙を零した。
「愛してる。ボクはもう、それだけでいい」









 嘘なんて吐かないよ。ボクはぐちゃぐちゃであなたに見せるものを選ぶ暇も無いのだもの。