Honey is sweet,but I don't say,
そうさオレが悪いワケじゃないのさ。時期と運が悪かっただけさ。
―――こう思い切れないのが速水龍一の速水龍一らしい所だった。彼が彼たらしめている理想像では、一度くらいプロのリングで負けたくらいでは決してムキになったりはしない。飽く迄クールに、努力のアトを感じさせないくらいの爽やかさで再戦をKOで飾る。そしてこれは単なる理想だ。表面上はそう見えてるとしても、心の底では実は腸が煮えくり返っていたりする。無自覚で。物凄く感情に素直な負けず嫌いなのだ。
子供っぽい、なんて天地がひっくり返っても彼の前で使ってはならない。
「拳のショットガンならまだしも口のショットガンはなぁ」
「精神的になぁ」
「……聞こえてるっつうの」
速水が拳を鳴らしてみせると、練習生AとBは一瞬固まって、即座に練習を再会した。確か田代なんとかと江藤なんとかという名前だったが、二度も聞こえる文句を言うってんならお前らは練習生AとBで充分だ。彼らの穴だらけのシャドーに鼻を鳴らしながら、それでも黙って見ていられる性分の彼ではない。ひとつふたつ的確なアドバイスなどしてやってから、自分のポジションに戻り、バンテージを巻き直す。今日はどうも上手く巻けない。
日に日に肌に刺激を増すようになってきた空気に、ふと壁のカレンダーに目を遣る。そうかもう11月近いのか。実はひとときも忘れた事のない、幕之内一歩との戦いを薄く苦く噛み締めながら、カレンダーの下、長椅子に座る男に何気なく目を移す。
ロシアから来たというその輸入ボクサーは熱心に、休憩の間は日本語と思しき単語帳を捲っている。速水を初めて打ち倒したインファイター、例の憎き幕之内(繰り返すが速水自身は憎んでいるなんて思っていない)と、数週間後には試合を控えている身だ。余裕だなとは思わない。彼は他の練習生とは違い、自分に磨きをかける事を厭わない事を、彼が音羽ジムに来てからの数日で判っている。
「休憩中は休めよ」
一瞬の間をおいて、アレクサンドル・ヴォルグ・ザンギエフは顔を上げた。そのままじーっと見つめられて速水は閉口した。ふと口をついて出ただけで、悪い事を言ったつもりはない。そしてオレにソノ気はない。これ程見つめられる理由はないんだが。
「……あ、ハイ。ちゃんと休んでまス」
「今の間は何だ?」
ヴォルグは照れた風に笑った。
「僕に言ってくれてるとハ、思わなかったものですかラ」
速水はふうんと言って、上手く巻けないバンテージに再び挑戦する。彼は別にヴォルグと会話をするつもりで話しかけたのではない。あ、そういえば昨日、包丁で指を少し切った。知らずその指を庇ううち弛みが出来るのだ。言葉を交わした流れで速水をなんとなく見ていたヴォルグが柔らかく言った。
「巻きましょうカ?」
「いらん」
ヴォルグは一瞬後、しゅーんと音がするくらいの勢いで頭を垂れた。何だこいつ。速水は舌打ちした。悪かったかな、そう思って手を差し出してみる。
「やっぱ、やり辛ぇわ」
「あ、ハイ。ありがとうございまス」
ぱっとヴォルグが微笑んだ。礼を言うのは普通オレの方だが、と思いながらヴォルグの好きなようにさせていると、傍で見ていた練習生AとBが囁き合った。
「将来亭主関白っぽいよな」
ギリ、と歯軋りをさせる速水に、丁寧にバンテージを巻いていたヴォルグはびくりとして手を止めた。
「痛かったでスか、ごめんなさイ」
「痛くねえ、痛かったら言ってるさ」
「……そーでスか……はい、出来ましタ」
「サンキュ……いや、」
速水はヴォルグの母国語で礼を言い直そうとしてやめた。さっきから頭に幕之内一歩の姿がこびりついていて、そいつをサンドバックに移して早いトコ叩きたい気分なのだ。ここでロシア語を喋れば、リングの外では全く柔らかい物腰のこの男との会話が弾んでしまう。速水が大学時代に付き合っていた女性の友達にロシア人留学生がいて、なんてトコから説明しなければならなくなるだろう。
ヴォルグが符に落ちない顔をしているが、それも仕方ない。また頼むと適当に言葉を放って、サンドバックに向けて歩を進めた。
「速水、休む時は休んで下さイ」
速水はヴォルグを振り返った。
汗はこまめに拭いていたし、荒い呼吸も努めて普通にしていた。ヴォルグは速水がロードワークに行っている間にジムに来た筈だ。速水が今日ジムに来てから一度も椅子に腰掛けていないことを、何故コイツは知っているんだろう。
「ネ」
ヴォルグはにっこりと笑う。溶かされるような笑みだ。速水は目眩がした。どくどくと心臓がいっている。全部、見透かされている。速水は小さく呻いた。ヴォルグの隣に腰掛け、努めて小さく、ヴォルグにだけは聞こえるように、慎重に呟く。
「あんまり大きな声で言うな」
「僕は休んで下さイと言ったダケですヨ。……焦っていますカ?」
「……悪い夢を見る。オレが、負けた、試合の夢だ」
喉を絞るような台詞だった。ヴォルグは速水と会話をしていないかのように、速水が隣にいないかのように単語帳を捲る。他の練習生達が縄跳びをする音がやけによく響いている。速水はもう何も言わなかった。
「ハイ、深呼吸」
「何だよそれ」
速水が苦笑すると、ヴォルグも笑った。
「僕も、ちょっと、似てまス」
「そうか」
「ダカラ、……いや? ソレデ? 休む、必要でス」
「どっちでも合ってるさ。……そうだな」
速水はヴォルグを見た。今日初めてきちんと見た気がする目の前の男は、柔らかく微笑んで、速水を見ている。こんな微笑みは見た事がなかった。落ち着いていいのか、なんだか落ち着かないのか判らない。不快じゃあないからまあいいか。速水は唐突に伸びをして、普通の声の大きさで喋った。
「判ってるんだけどよ! そんな事はさ」
「プロですもんネ」
「なぁ、お前、結構ヘンな奴だよな」
「……どういう意味でス?」
「そのままさ。……ああ、何でイキナリこんなに親密になってんだ」
速水が笑うと、ヴォルグは曖昧に笑った。
「しんみつ?」
「あ? ……ああ、しんみつってのは」
ヴォルグはマッテ、と言うとどこからともなく辞書を引っぱり出して引き始めた。熱心だねぇ、と速水は膝の上でほおづえをついて検索結果を待つ。
判っているとは言ったけれども、自分が本当に判っていることなんて極わずかだ。
境遇が似てるなんて言おうと思えばいくらでも言える。
だが、それでも、速水はいいと思った。
(珍しいな、このオレが)
窓ガラスの向こうは初冬の澄んだ空気に満ちている。もう一度走ってきてもいいな、と速水は思った。
しばらくして、ヴォルグの顔が泣きそうに歪められた。様子がおかしい。
「あったか?」
「………速水………」
「な、何だよ」
「速水ハ、そういうウ人なんですカ」
「………は?」
「ゴメンナサイ、速水には申し訳ないでスけど、僕速水の事お友達としか見られないでス、ウワーン」
「ちょっと待て!」
ようやく理解した速水が青ざめていると、あっ速水さんが外国人泣かしてる。うわー。ボクシングで勝てないからって酷いよなぁ。練習生の声も聞こえてくる。冗談じゃねえ。速水は混乱した。だが今頃になってオーバーワークが祟り、各方面でのフォローの困難さを思うと一気に面倒臭くなってきてしまうのだった。
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