ウインターワークス。











 どうにかしようとしてどうにかできるものを目の前にして、どうにかしなかった事くらいある。
 それに良く似た、或いは逆のシーンだって、無論。
 「据え膳食わぬは武士の恥」を実行しない所に人生の面白さがあったりするんじゃないのかという事だ。 

 ただ、コレはちょっと勘弁して欲しい。

 こんなシーンは知らない。
 畜生、俺だって37年間男でいたんだ。むしろ漢と書いてオトコと読むくらいの生き様だ。衒いもなく自分の口からそう言えるくらいには、オトコでいたんだ。


 こんなシーンは、知らない。














 今朝、天気予報で今年度初の雪だるまマークを見たであろう人々はどこか早足で、首を襟元にことさら埋めているように見える。運動場からフェンス越しに見ていた道路から視線を空に移しても、日本の端でもてっぺんでもないこの地面の上にひしめき合うのは、まだまだ水色と白色だけだ。いつの間にか煙草をギリギリまで吸っている事に気付いてぺっと吐き出すと、目の前に茶色い物が舞った。葉っぱだ。また二枚、三枚と葉が落ちてくる。風が出てきたのだ。

「ぶえっくしょい! ……ああ、ちくしょう」
「監督、お風邪引かれますよ」
「凪よ、お前看病してくれるかぁ?」

 そりゃあ看病くらいは、ともごもご言いながら、野球部マネージャーの鳥居凪はジャケットを差し出した。ありがてぇ、と野球部監督の羊谷遊人はもう一度小さくくしゃみをしてから、それを着込んだ。

「凪の看病つうメリット以外はなんも人類にイイコト齎さねえなこの季節は」
「お嫌いですか、冬」
「おうともよ。去れ冬! 来れ夏! おい凪、お前も早く帰れよ。部室の掃除は週に一度でいいっつったろ」
「もう済みました。今日は部員の皆さん結構早く帰ってらっしゃいましたから。監督にジャケット渡したら、帰ろうと思っていました」

 凪が鞄を持っている事に気付き、羊谷はいつもの笑みを浮かべてそうか、と言った。

「襲われるなよ、腰は冷やすなよ、それと明日もよろしく、だ」









 俺は何でこんな寒い日に運動場で物思いに耽っていたんだろう、と荷物を取りに野球部部室のドアノブに手を掛けた時思った。いつも冷たいノブが暖かい。こんなになるまで。
 ああそうか、あれの事を考えてたんだな、と内容の切れっ端に思い当たって唇の端を歪ませながら(部員から見たらそれは悪魔の笑みだと称される)、ドアを開けて中に入る。可愛い凪の言った通り、部員は全員良い子に帰途についているらしく誰の気配もない。羊谷は胸ポケットから煙草とライターを取り出して火を付けた。ヘビースモーカーの羊谷は、部員がいなければ部室でも喫煙所にする。
 逐一校舎に入るのが面倒な羊谷は、部室のロッカーをひとつ自分用に陣取っている。ドアに近い所にあって、夏は入口に近くて助かるんだが、冬は勘弁して欲しいと思う。羊谷が奥の方へ歩いていったのは、着替えをするたかだか5分程度にエアコンの電源を入れようと、吝嗇主婦の目の敵にされそうな行為をしようとしただけであって、決して違和感を感じたとか運命に導かれてだとか、そういう事では無かった。

 何かが視界の端に引っ掛かる。見慣れた色のコントラストだ。少しだけそっちに首を伸ばして見て、羊谷は銜えていた煙草を落としてしまった。

 奥の椅子に座っているのは、野球部主将の牛尾御門だった。
 牛尾は、座っているというよりは、傍の荷物に寄り掛かって、遠くから見たらテーブルで隠れる場所にいて、見た目より薄い背を覆うように学生服が下敷きになっていて、要するに、

 「……オイ、牛尾」

 先程運動場で耽っていた物思いの切れっ端が、目の前で嫌な感じに集束していくのを止めようとして羊谷はかなり大きい声で牛尾を呼んだ。動きは無い。「オイ!」返事が無い。屍のようだ。なんて昔のゲームのフレーズを思い出して、屍の方がまだいくらかマシだと羊谷は思う。第一発見者の義務とかの面倒さの方がよっっっっぽどマシだ。だが屍ではない。かすかに聞こえる寝息と、きちんと上下する胸。

 牛尾御門は熟睡していた。

 羊谷は、とりあえず、煙草を、吸った。








 まず、俺は寒いのは苦手だ。早く帰りたい。で、ここに主将が寝ていると俺は監督として放って帰れない。
 ならば、牛尾を叩き起こして彼の今日一日分のハードワークを労って家に返し、自分もとっとと着替えて部室の鍵を締めてこんな寒い場所からおサラバする。家には炬燵もあるし冷蔵庫にはビールとアンキモがある。冬は嫌いだが炬燵で飲むビールは好きな羊谷だった。
 それとも、ああ、そういえば俺は牛尾御門にただならぬ想いを秘めているんだった。忘れてた。
 ならば、部室に誰も居ないのだからこの機会に一発やってしまえばいい。「嫌よ嫌よも好きのうち」を身を持って知っている羊谷の恋愛のモットーは、何事も肌を合わせてから、である。告白なんて面倒な手順を踏むのは、経験と技術のない未成年だけの義務だ。とりあえず寒いのは嫌だから暖房は付けておいて、優しく起こして意識のハッキリしないうちに上手く丸め込み、一度抱いてしまいすれば後はどうにでもなる。次の日から楽しい学校生活が送れるはずだ。

 羊谷は、だが、もう一度、煙草を吸った。









 牛尾御門という人物は、まあある意味化け物だよなと羊谷は簡潔に思った。彼の性格も人生の意義も、野球というスポーツに染み込んでいて、そして彼には野球に必要なものが何一つ欠けていない。彼は完璧だった。 野球が好きで、申子園に行きたくて、それで頑張っている野球部員達は、彼を見てどうしてこんな人がいるんだろうとか、天は二物を与えずとか言うけど嘘っぱちだよなー……とか普通言うハズだが、言わない。思っているかもしれない、けど何となく言わない。言えなくなるのが、彼の彼たる所以だった。

 天然なんだよな。羊谷は口を四角に開けて濁った煙を吐き出した。その表情は、俗に言う降参の意味だ。

 どうしてこんな人間がいるんだろう、と言う気持ちは完璧なものに対して出るだろう。要するに彼は野球以外も完璧だったから、それは完璧とは言わないのだ。使ったボールは白く磨き直す。バットは手垢を拭って仕舞う。運動場は丁寧にトンボがけをする。ロッカーは大切に扱う。人には優しく時には主将らしく厳しく、自分にはいつでも厳しく、……笑うと幼くなる。

 顔は関係ないだろ、と羊谷は思わず突っ込んだ。

 部員からもカッコイイという声が聞こえるくらいに牛尾は顔も良かった。ついでに良く笑うのだ。気の抜ける笑顔だった。こう色々いい点をあげてゆくと完璧すぎて完璧でない。完璧なんて思えなくなるのだ。

 なんか、いいなあ。

 一度でもこういう感情を持つと、人はそれに対して「完璧」なんていう客観的な見方は、もう出来なくなる。それが、牛尾御門という人物だった。

 ああクソ、何で俺は本人を目の前にしてモノローグでノロけてんだ。しかも論点が滅茶苦茶だし。

 羊谷は煙草を床に落として踏み付け、その後思い出したように吸い殻を拾ってゴミ箱に捨てた。(この前牛尾に怒られた)牛尾の様子を窺いながら椅子の方に歩いて行く。良く寝ている。牛尾の体勢が変わらない程度に荷物をどけて、牛尾の頭の横に腰掛けた。

 寝顔は、かわいいと思う。鳥居凪に対する気持ちとほぼ同じだと、羊谷はあっさり考察する。
 良く凪に対して行うスキンシップに、部員一年の猿野天国は恋をしている者の嫉妬心丸出しでセクハラ親父と罵り喚き時々暴行してくるが、何となく面白いのであえて本当のところを説明していない。凪は可愛い、野球部のマネージャーだ。父性本能というにはあまりにもアレなので言わない。それがセクハラというならますます黙っているが吉。

「……牛尾。いつまで寝てる気だ」

 頬を抓る。非常に白く柔らかい。頬でコレなら、躯の方もさぞかし触り心地が良いだろう。悪戯しちまいてえな、とひとりごちて、羊谷はやっぱり凪に対する気持ちとは全く別だなーと思い直した。凪にはこんな気持ちは湧かない。いや、触ってみたいなと思うより先に手が出ているというだけかもしれないが。

 何で今コイツに何も出来ねえんだ?

 ま、俺だって選ぶ権利はあるっつう事だよな、と選ばれない権利は無視して羊谷は嘆息した。

 なんとでも出来る状況で、あえて何もしない。これ以上美味しい場面はない。今のこの状況を顧みるだけで苦虫を噛み潰したように笑える。オイオイ勘弁してくれよ、こんな気持ちになったことなんて初めてだ。負けた。降参だ。艶やかで色素の薄い牛尾の髪の毛を漉いてやりながら、羊谷はなんとなくそう思った。さらさらと指の間を流れる髪の毛に、ますますどうにかしたくなる。時々震える長い睫毛、うっすらと開かれた紅い唇、彼の静かな呼吸、たまらなくなる、そうして何もしない。

 ふと、羊谷は凪が部室には誰もいないと言っていた事を思い出してアレ、と思った。そういえばあの時凪は眼鏡をかけていなかった。また夜掛けたまま寝てしまって無くしたか。それにしても凪が部室を掃除している間もずっと寝こけていやがったのか……今の状況といい、ええい押しても引いても起きないお寝坊さんめ。そこまで思って、ふと下からの視線を感じる。

 牛尾が目をぱっちりと開けて、羊谷を見ている。羊谷はドキリとした。それから、すぐにニヤリと笑った。

「お早う」
「………」
「今日のメニューは、そんなにキツかったか?」

 牛尾はしばらくぼうっとして、それから自分の状況を理解したらしく、慌てて身を起こした。正確には、起こそうとした。羊谷のがっしりとした腕に搦め捕られて、ぎゅうと抱き締められたからだ。

「………あのぅ」
「寒いんだよ。」
「あの、暖房は」
「壊れた」

 いけしゃあしゃあと宣う羊谷に、牛尾も気温の低さを感じたらしく、素直に腕を羊谷の腕に回して暖を取った。それがあまりにも唐突で、考えもしなかったので、羊谷の心臓は幼い子供のそれのようにどくどくと音を立てた。羊谷は内心おお、どうした俺、と眉を上げた。いつタガが外れるかなぁということも思わないでも無かったが、ああそれは絶対に無いなあとなんとなく思った。

「すみません。気付いたら寝てしまっていたみたいで。冷えますね」
「お前な、この状況に対して何か突っ込むべき所はないのか?」

 えーと、と牛尾は苦笑した。変な図ですね。

「止めて下さい、とは言わねえのな」
「はは、僕も寒いですから。監督、すごく暖かいんですね」

 そうじゃねえ……。そうじゃねえだろ……。羊谷は力無く笑ったが、もう少し頑張ってみる。

「お前、むちゃくちゃ細いなぁ。ちゃんと食ってんのか?」
「はい。……っ」

 牛尾は声を詰めた。羊谷が無遠慮に腰や背中あたりを撫でている。

「……っちょ、監督、くすぐったい、です」
「そりゃ良かった」
「はぁ? ……わ、ちょっとちょっと、……」

 シャツの上から感じる牛尾の温もりと柔らかさが、物凄く気持ち良かった。で、勝手に浸っている間に牛尾はというと目に涙を溜めている。おいこら! と焦って手をとめてから、更に焦ったというか驚いた。そんな牛尾を見て止めてやろうと思った自分に、驚いたのだ。

「………………何するんですか、もう」

 いやそれは間違い無く俺の台詞だ。理不尽な状況に羊谷は眉を寄せながら、体の力が抜けているらしい牛尾を解放して椅子から立ち上がった。

「帰るぞ。とっとと用意しやがれ」
「……あ、ハイ。すみません、すぐ」

 牛尾は深呼吸して(多分触られている間息をしなかった)立ち上がり、てきぱきと荷物を纏め始める。その一挙手、一投足を眺めながら、抱いてみてえなと呟いて羊谷は煙草に火を付けた。









 襲われるなよー、腰は冷やすなよと凪に言ったのと同じ言葉をかけると、角を曲りかけていた牛尾は苦笑して頭を下げた。苦笑とは何だ。俺は本気だぞ。とりあえず監督として彼がきちんと家の方向に向かうのを見届けて、愛機を発進させる。監督でなくても見送ってたかもしれない。
 今日は色々面白かったな、いや最近か。ていうか負け続きだ。今日は玉はやめてミニロトにしよう。
 それで今度勝ったら、少し進展させてみるのもいいかもしれない。

 進展、か。

 こっち方面でこの言葉を使うのも久し振りだなと、寒さであまり働かない思考でそう思った。冬は嫌いだが、やる事は実はたくさんあって、しかも楽しかったりするのだ。

 部活じゃいつもその実力に度胆を抜かされてばかりいるが、今日なんかもっとビックリしたが、見てろよ牛尾御門、世の中のもうひとつ面白い世界を思い知らせてやる。てゆうか俺の面白いと思う事しかしないけどな。


 ほぼ逆恨みに近い文句を吐きながら、雪が降りそうな空模様を見て唇を歪める羊谷だった。










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