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僕は壊れ物じゃ無い、何度言っても彼はそんな風に僕を扱う。僕はそれが嫌なワケでは勿論なくて、彼のしたいようにしてもらっている。何と言っても、僕は彼に何をされたって嬉しい。初めて躯に触れてもらった時なんか、僕はすっかり感激してしまって、しばらく呼吸が出来無かった。彼はびっくりして、すみませんっす、大丈夫っすか、と彼特有の、僕には甘く聞こえる声で、一生懸命に謝る。その瞳に捕らえられて、僕は何も言わない、言えなくなる。彼の一挙手一投足に、躯の芯が溶け出してゆくのが、心地よくて。
僕は君となら、どこへだって悦んで堕ちてゆく。
部屋がいつも明るいのは、僕が彼に頼むからだ。彼は行為の前に、口籠りつつも、電気、消した方がいいっすか、なんて聞いてくる。上目遣いを愛しいと思いながら、僕は首を決して縦に振らない。「君が見られないから、嫌だよ」彼ははにかんで、はいっす、と言ったあと、小さな小さな声で、僕もっす、と言う。
そう、君のその瞳が、僕を見てくれないと嫌なんだ。
彼は全身で僕を愛撫する。慣れない彼はそれしか方法がないのだ。本当に全身で、全身全霊でといった表現が正しいくらいの稚拙さで、僕は彼の躯の下で歓びに身を捩らせる。ああ、彼は僕をこんな風に想っているのだ。躯を愛撫するというより、僕の精神を大きく揺さぶらせてくる。彼は確かに躯を重ねてくれているハズなのに、泣きたくなってくるのはどうしてなんだろう。いつの間に彼は、僕をこんなに、何も知らない子供みたいにしてしまったのだろう。真綿が水を吸うように、彼が与えてくれる全てのものが、何もなかった僕の中を満たしてゆく。僕はもう何も考えられなくなって、そう、彼だけを考えることが許される。それがなんと、幸福なことだろう。快楽に身を任せると瞳が閉じようとするけれど、僕は目を開けて彼の瞳を見ようとする。瞳が合うと、彼は、かすかに微笑んでくれる。大丈夫っすか、御門さん。彼の目はそう言っている。貴方を想っています、彼の瞳はそう語り、僕の頬に口付けを落とす。彼は言葉を紡げる余裕がないから、こうやって僕は、彼の瞳を見る。綺麗な瞳、僕は確かに写っている。彼は、今、僕だけを見てくれている。
君がいなくなったら、君が僕の中にいなくなったら、僕は僕じゃなくなってしまうんだろうね。
その日は珍しく、僕は子津くんから少しだけ離れて、濡れた躯を休ませていた。子津くんも僕を気遣ってか、何も言わずにいてくれている。腕を伸ばして、僕の髪を撫でようかどうか、迷っているってところかな。僕はすでに、彼を振り向かなくても彼の行動が分かるようになってしまった。それがとても嬉しくて、哀しい。子津くんの瞳が、僕を見てくれているからだ。子津くんは傍にいて、僕の躯には子津くんが確かに僕の中にいたという証拠がいくつも存在した。
永遠に消えない証拠であれば、僕はもう他に何も要らない。
「御門さん」
「何?」
「あの、違ってたらすいませんっす、……御門さん、何かあったんすか」
「どうして」
「だって、御門さん、いつもと……」
「違う? 僕はいつもこんな感じだろう」
「そうっす、ボクと一緒になってから、ずっとそうなんす」
僕は次の言葉を躊躇った。言えればなんと楽になれる事だろう。ごめんなさい。僕は我が身可愛さに、君の心が傷付く様を、見ないフリをします。
「子津くん、僕の事を、忘れないでね」
子津くんは、ものすごい目で、僕を見た。
ああ、この目だ。僕はこの目に捕らえられて、どこへも行けなくなった。鳥が翼をもがれて、こんなにも狂喜して地を這うものだろうか?
この世で一番愛しい人を自分の言葉で傷付けたというのに、僕が想う事はいつだってひとつなんだ。
僕が歓びに打ち震えている間、子津くんの拳はきつく、きつく握りしめられた。少し俯いてしまって、僕は勿体無いと思う。君のその瞳が見たいのに。
「御門さん……」
赤ん坊でも、こんな哀れな声を出さない。子津くんはもう、一ミリも僕に近付けないようだった。
「何、何を言ってるんすか? 正気っすか? 忘れるとか、御門さん……何で? 本当に、何言って……」
最後の方は掠れて聞き取れなかった。
「君が好きだよ、子津くん。多分僕は君がいないとダメなんだ、何も出来ないんだ、だから僕の事を忘れないで。少し思い出すだけでいいんだ、ずっととは言わないから」
僕は、自分で泣いている事に気付かず、子津くんが抱き締めて頬が彼の肩に擦れた時にそれが判った。
「お願い、忘れないで、約束して」
「嫌っす! 約束なんてしません! 忘れるわけがない!」
「お願いだよ、じゃないと僕は生きて行けないんだ」
「忘れないと、言ってるでしょう!」
戒めているんじゃないかというくらいの強さで抱き締められて、僕はいよいよ泣き出した。どうしてこんなにも哀しいのか、まったく判らない。本当に、僕は、子供になってしまった。もう、何も判らないんだ。
「お願いだよ……」
「泣かないで下さいっす……どうして泣くんすか? どうして分かってくれないんすか? ボクは何度も言った! 貴方だけじゃないんだ、ボクだって、貴方が居ないと生きて行けないっす!」
こんな風に彼に抱き締められたのは初めてだ。もうこれ以上は、彼を傷付ける事は出来ない。彼は僕にたくさん幸せをくれたのだ、ニセモノの幸せでも、僕は彼に与えるべきだろう。僕は自分を幸せにする権利など持っていないのだ。
「うん。……そうだね」
「御門さん……」
「ゴメンね。僕がどうかしていたよ」
「本当に?」
子津くんは僕の顔を覗き込んだ。この瞳だ、この瞳が僕を最初に捕らえたのだ。僕はその瞳に乞われるまま君を手に入れた。僕が君を呼んだんじゃない。君が僕の手からいなくなることは、誰にも止められないんだ。
「ホントだよ」
僕は微笑んだ。目の前の彼があまりにも愛しかった。こんなに人を愛しいと思えるなんて、全然知らなかったんだよ? だから、これは、お礼なんだ。君がひとときでも僕を想っていてくれた、こんなに嬉しい事はないんだ。
「御門さん……」
子津くんは心底嬉しそうに笑った。この子は、どうしてこんなにも愛おしく笑うのだろう。あらためて、僕を優しく抱き締めるから、僕も抱き締め返した。幸せに身を焦がしながら、僕は、泣いた。愚直な彼は、嬉し涙と思ってくれる。だから僕は、君を好きになってしまった。
君よりもっと愚かな僕は、ずっと君を思い続けるんだろう。君を傷付けてばかりの僕は、それでも願う。このまま好きでいることだけは、どうか許して。君の想いまでは、もう望まない。
「御門さん、あの、……その」
抱き締めたままで表情が見えないままなのに、どうしてこんなにも彼の気持ちが手に取るように判ってしまうのだろう。なんだい、と問うと、彼はとても恥ずかしそうに言うのだ。
「ボクの事……好きっすか? いえ、その、何だか急に、聞きたくて」
僕の目から涙が溢れた。
好きだよ、好きに決まってる、馬鹿、子津くんの馬鹿。どうしてそんな事聞くの。好きだよ、君が僕の事を好きなんて信じられないくらい好きなんだ。言葉にならない、もう僕は喋る事ができない、僕は目の前の彼の唇に口付けて、想いが通じるといいと願った。
こんなに愛しい人を、最後まで好きでいることだけは許して。
他には何も望まない。
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