出されたコーヒーを、彼はゆっくりと飲んだ。カップを持ち上げ、口に持ってゆき飲み干す、僕はその一連の彼の動作を見つめた。


 伸ばされた指は節が太く、すらりと長い。カップが小さく見える。その几帳面に整えられた爪先がみっつ、取っ手に通される。カップは持ち上げられ彼の唇に寄り添う、唇は柔らかに開かれる。うすいくちびる。ひとくち口に含み飲み下す、彼の喉仏が上下するさま、肉食動物の力強さと機能美。「苦いっすね」形のいい眉、かすかに刻まれた皺、わずかに掠れた声、それはコーヒーのせいでなく。


 僕が頬を染めたのは、目の前の彼の直接的な動作に、ではないのだ。わけのわからない衝動は緩く、重く沸き上がる。アイスティーのグラスを持つ手が震える。僕の心に表面に唇に伸し上がるそれを、僕はとどめる。わけがわからないはずはない。僕はそれを確かに知っている。―――彼と躯を重ねた時の情景。


 彼特有の高めの声に、僕は応えた。彼は、声変わりするのが遅かった事を思い出す。濡れた肌、辿々しい指先、遠慮がちに舐めあげる僕の耳元、僕はその度に彼を抱き締めた、燃え上がる僕の躯を抑えるように。彼の滑らかな肌に、僕はくちびるの跡を付けた。僕の外も中も小さな彼が満たし、僕は幼い彼がくれる快楽だけがすべてだった。


 目の前の彼は――僕の知る彼だ。そして僕の知らない彼だ。
 流れた月日は5年で、そうだ、確か5年だった。5年? 短い? 長い? 僕はそれすらも文字にしない。


 噂は少しだけ聞いた。彼とのセックスについてだ。
「あまりに自分自身のことを思いやらない」
 彼と付き合った女性はみな、彼から未曾有の快楽を与えられた。彼は付き合った女性とは真摯に生きたから、身も心もきちんと愛した。彼は与えてばかりで、求める事をしなかったという。次第に哀しくなると彼女達は言った。


 『まるで神に縋っているようだったわ』とある女性は言った。『私には救えない。だから別れたの。今でも愛してるわ』


 嫉妬、憎悪、嘲心、そういった感情は僕は持つ事は出来なかった。ただ思うのは、目の前の彼が、コーヒーを飲む彼が――カップを持つ指が、縁を嘗める舌が、伏せられた瞳が、僕以外の人間を『愛して』きたとは、どうして思えないのかと言う事だった。


「御門さん、今親父さんの会社手伝ってるんすってね」
「誰に? ああ、蛇神くんか」
「そうっす。パソコンに苦戦してるとか、色々聞いたっすよ」
「あはは、そうなんだ、実はね。でも何とか順調。最初はよくわからなかったけど、もう慣れた。子津くんは大学行ってるんだって? ひとり暮らし?」
「ええ、親に仕送りしてもらって…なんか、心苦しいんでほとんどはバイトでなんとかやってるんすけど」
「エライね。迷惑かけてることを自分でちゃんと判ってるって」
「そんなことないっすよ。とりあえず今は卒論でヒイヒイ言ってる感じっす」
「もうそんな時期か。題材はなんだい」
「ドイツの環境政策についてやってるんすけど、ダメっすね。時間が全然足りない」
「判るよ、書いているうちにもっと知りたくなってくるんだろう」
「そう、そんな感じっす」


 子津くんが笑ったので、僕も笑った。僕はうっかり、こんな会話を二人でしていた記憶を探ってしまった。
 昔の事は憶えていない。会話の内容も、端々さえ記憶にない。僕達は一緒に生きることだけに生を傾けていた。瞳に映っていたのはお互いと、野球と言う形のないもの。残っているものは感情と薄い肌の記憶。それすらもあやふやだ。


 それから僕達は、しばらく身の回りの他愛無い話、例えば僕が会社でまとめて買う備品について揉めているだとか、買っている猫に子供が生まれたとか、子津くんの大学のいくつかのサークルがストを起こしたとか、そういった害のない話を小一時間ほどした。そのうちに窓の外は曇り空になってきて、子津くんはすこし慌た様子で残りのコーヒーを飲み干した。ベランダに、洗濯物を干してきたのだと言う。


「ありがとうございましたっす。今日は、逢えて、良かった」
「僕もだよ」


 目を合わせて微笑んで、僕は伝票をとって立ち上がらなければいけないと思った。僕からそうしなければ、彼はいつまでも席を立つ事などできやしない、そういう子だ。すべて僕に合わせてくれる子なのだ。
 僕は手を伸ばすと、同じタイミングで子津くんも手を伸ばして来た。何か思う暇も無く、子津くんの手に伝票が渡る。子津くんの手は僕の右の親指と人さし指を掠めて引っ込められ、僕が払います、とそういう意味の笑顔を僕に向けた。僕は、頷いた。他に、出来る事が、なかった。


 僕はまったくおろかなことに、ひどくショックを受けていたのだった。


 僕の血潮は沸き立っている。彼に触れた手が起爆地点になった。かたかたと震える手をきつく握り締めて、僕は先立ってレジへ歩く子津くんについてゆく。それが精一杯で、金額を言うウエイトレスの声も聞き取れない。無理矢理にでも子津くんの手に僕の代金を握らせようと思っていたのに。ああ、『握らせる』だって? そんなことができるのか、この僕に!


 からんからん、と音が鳴る。子津くんが喫茶店の入口で、ドアを開けてそのまま待っていてくれている。僕は、歩いた。気付かれないように歩いた。僕が店から完全に出るのを待っている子津くんは、僕より背が高い。僕が外まで出たのを確認して、子津くんがドアから手を離した。からんからんとまた音が鳴る。子津くんが空を見上げて言った。


「すみませんっす、本当はもっと話、したかったんすけど。この曇り空…やっぱり、心配で。また、会えたら」
「そうだね、また、会えたら」


 僕は笑っている。笑えてるはずだ。だって、目の前の彼も、笑って僕と目をあわせてくれているじゃないか。気付いていたら、何か聞いてくるはずじゃないか。彼はどんな小さなことも、気付いてくれていた子じゃないか。


「じゃあ、また。……御門さん」
「ああ、またね。子津くん」


 彼を見送る形になった僕は、彼が道の曲り角で手を振るのに応えて、それから、しばらくの間立ち尽くすことを、自分に許した。


 彼は僕を、あの頃とまったく変わり無く、僕を気遣ってくれて、優しく接してくれて、僕を名前で呼んでくれて、自分の身の回りの事を話してくれた。


 変わり無く。

















 バスタブの縁に顔を埋めるようにして、僕は息をしている。これは息をするという行為で、泣く、というよりはよほどそれに近いと思う。意識をしないと、息が出来ないのだから。ひどく苦しくて、僕は底にてのひらを付いて首を仰け反らせた。


「ひっ……く、ひぃ……っく、う……っ」


 バスルームに響く自分の声に、僕は心の中で笑った。いつもの夜と大して変わりが無い声だ。僕の制御を聞かずに痙攣し続けているこの胸は濡れていて、それは透明だった。じんじんと疼く右の親指と人さし指を、僕は唇に当てた。してはいけないこと、ということは、この世のどこにもない。


「……ん、……ん、く……ふっ」


 くちゅくちゅ、とちいさな水音が響く。僕は夢中で自分の指を舐め、吸い上げ、噛み付いて、彼の名前を呟いた。たとえひとりの時でも、決して言ってはいけない言葉は、言わない。僕は子津くんの名前を呼ぶことだけしか、自分に許していない。……あの言葉は、言ってはいけないのだ。


「子津くん……子津くん……」


 濡れた指をそのまま後ろへ持ってゆくと、案の定待ち焦がれるようにひくついていたその部分へ突き入れる。途端に僕の躯は強張り、どうしようもなくなって空いた左手で自分を抱き締めるようにして躯を押さえる。震えが止まらない。僕はこんなとき、そうだ、彼に抱かれるとき、必ずあの言葉を言っていたのに。


「あっ……あ、ひあっ、子津くぅん……」


 ずちゅ、ずちゅと掻き回すと、僕の躯は電気が流れたみたいに波打つ。僕の中にいるのは誰、子津くんしかいないし、本当に子津くんしかいない。……子津くんが、いるのだ。僕はもう何も考えられなくなって、子津くんの指に導かれるままに指を蠢かせる。


「あ、あ、あ、…子津……くん、子津くん子津くん、……あぁっ」


 僕は絶頂に達する。哀れなほど質量を増した僕自身の口から放出される液体を、呆然と見ていた。はっ、はっ、と短く息をする自分も、何故か意識の隅に居る。


 彼の声、彼の瞳、彼の囁き、彼の笑顔、彼の指、彼の動作、笑う時に少し震える語尾、振り返って僕を見上げる甘い眼差し、歩く度に揺れる髪の毛、僕に向かって伸ばされる彼の腕、僕の中をかき混ぜる彼の熱。


「………子津…くん………」


 ダメだ、言ってはいけない。








 好きだなんて、今更。





















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