ジマンゲ




 僕達が当番だなんて、今日は凄い偶然だったよね。そう言いながら牛尾は着替えの入ったバッグを机に置いた。蛇神はそれに目をちらりとやって、何でもてきぱきとこなす彼を妨げない様に、自分の身の回りの整頓にかかる時間を計算する。

「あ、ゆっくりでいいよ。こんな時くらいはね」

 西日が差し込む教室は、ほのかに暖かい。当番だった二人以外の生徒はそれぞれ、学期末テストの高点数を獲得するためにとっくに帰宅している。そのうち何割かは早く帰っても勉強などせずに遊んでいるのだろうが、今の二人に取ってはどうでも良かった。テスト期間には部活動もお休みだ。それ以外に気にかかることなど何一つない。

 蛇神は、自分を気遣う牛尾の言葉に、律儀に彼の目を見て頷こうと思ったのだ。だが蛇神の視線は、牛尾の首筋で止まった。アンダーシャツを脱いで一息ついた牛尾は、蛇神の視線に気付いているのかいないのか、自分の首筋に手をやって、見えない部分にあるはずなのに見ようと首を下にして、見えないから結局手で触ってみたりして、いる。首に巻いたロザリオの金属音が教室に軽く響き、案外変わった音だったことに目をぱちくりさせた。

「誰もいないと響くんだね」
「牛尾、その跡は」

 牛尾はもう一度まばたきして、それから喉元に手をやり、ああ、これ? と言って微笑んだ。

「昨日、ね。無理言ったら、付けてくれた」

 自分で言って睫毛を伏せた牛尾に、蛇神は少し笑ってみせた。流石にこの場は笑っておくべきだろう、なんて彼は思ったのかも知れない。

「この時期を狙ったのか」
「まさか。僕達はまだ器用じゃない」

 牛尾は今度こそ照れくさそうに笑った。

「……なんだろう、ねえ、蛇神くん、判るかい? やっぱり」
「判らぬ者など居るか。今日は始終お前はおかしかった」

 蛇神は机の中から教科書を取り出して鞄に入れていく。牛尾は身を乗り出して蛇神の顔を覗き込んだ。

「鏡がないから僕は見えないんだ、君に見て欲しい。ちゃんと付いてるかい? 綺麗に、まだ残っているかい? ずっと、心配で」
「良く見えている。気を付けた方が良い程」
「本当?」

 牛尾はもとから、笑うと子供みたいな純粋な喜びが他人にも伝わるが、蛇神はきっと、今のようなのは見た事が無いと思う。牛尾はひとしきり、幸せを噛み締めたあと、すぐに気付いて苦笑した。

「すまない」

 今更、と蛇神は短く返した。

 それ以外に、何が言えただろう。

「君には、いつも、迷惑をかけてる」
「そうでもない」
「どういうことだい?」
「傍にいてくれているだろう」
「それは当たり前だよ」
「そうか」

 蛇神は唐突に手を伸ばした。牛尾は動かない。人さし指と中指で触れた牛尾の肌は、その部分だけ紅く熟れている。彼がただひとり愛する者の、愛されている証。考えに考え抜いて付けたのであろう、自分が付けたい部分と、あらゆる服に隠れていなければならないギリギリの部分。付けてくれと強制までされたものだからこの際と、今までの鬱憤を晴らすようなその強さ。

「蛇神くん」
「こんな事をしても、我の傍に居るのか」
「こんな事って? 子津くんを侮辱でもしてるつもり?」

 蛇神はわずかに眉を寄せた。

「蛇神くん、僕は謝るしか出来ないんだ。そして君と時々居ることだけ。君が許してくれるどんな事も、僕に取ってはとても有難いんだ。本当だよ」

 牛尾は静かに続けた。

「君がしている事は、僕を試してるだけだ。どうだい? 僕は君の友人に相応しいかい?」
「相応しいな。」
「それは、良かった」

 牛尾は笑ってみせて、蛇神は、ああ、いつもの男だと思う。牛尾の肌から手を離して、教科書の片付けに戻る。強い男だと前から思っていたが、認識を改めなければならない。あそこで怒りを感じていれば、きっと今すぐにでも彼は自分との関係を断ち切ってしまっただろう。あの時彼は怯えてはいたが、決して身を引いてはいなかった。自分の弱さを知ってしまった、一番、強い男だ。

 閉め忘れた窓の傍のカーテンが揺れる。ちいさく鴉の声もする。日が短くなってきたねと牛尾が言うと、そうだな、と蛇神は返した。大事な友人には、余計な言葉などいらないとでも言うように。

「子津も大変也」
「それってどういう意味?」

 帰る支度を整えた牛尾が窓を閉めながら、苦笑する。蛇神が、何となく、牛尾と友人で良かったなと思うと、牛尾ははっきりと、大きな声で、ああ、君と友達で良かった、と言った。











(C)Eiko Itary 1998_2002 All rights reserved.