ああ、この人はなんて、何にも知らない人なんだろう。
 僕がここにいることを信じていないどころか、願ってさえもいない。
 僕はもう、貴方がその手を離しても、どこにも行けやしないのです。









二人っきりのからさわぎ
_
In the day AFTER X'mas - at 2001 last.









「お願いっす……マジ勘弁して下さいっす……」
「ダメだよ。僕からは逃げられない。判ってるクセに」

 どこにでもありそうな高校の、どこにでもありそうな野球部部室にて。半泣き状態の子津忠之介と、綺麗だがある意味背筋が凍りそうなレベルの微笑を浮かべた牛尾御門がいる。

「それこそこっちの台詞っすよ!僕が何も出来ないって知ってるのはキャプテンの方でしょ?!」
「何度言えば判るのかな、僕は君の前ではキャプテンじゃない。御門だ。御門って呼んでくれなきゃ返事しないよ」
「…………御門さん。」
「なんだい?」
「御門さんと呼べば、聞いてもらえるんすか」
「聞かない。」

 にっこりと潔いくらいの憎たらしさで牛尾は笑った。子津は思わず拳を握りしめる。彼が牛尾を殴れる訳がないので、それはもっぱら自らを奮い立たせる為に使われる。それはそれで情けないことだが、子津は今更何とも思わない。というよりその余裕がない。情けないなんて考えていたら目の前の、最愛の、最強の人に立ち向かうことなんぞ出来やしない。

 事は、牛尾が子津に今すぐここで抱いてとねだった事から始まった。子津は勿論狼狽したし、断った。鍵を掛けたってこんな場所は、誰かが所用で戻ってきた時は大問題だ。誰もいないのにドアが開かないんだから、用務員さんが飛んでくる。大体神聖なこの場所でこの人からこんな単語が出るとは、……いやこの人なら言うっす、この人はこういう人っす、なんて子津は再認識している。牛尾は何度ダメだと言っても引き下がらない、まるで断るのを分っている上で言葉のやりとりを楽しんでいるかのようだ。いや待てよ、実際そうなのかも知れない。子津は一瞬青ざめてから、キッと牛尾を見た。牛尾は壁際のベンチに座り、きらきらと悪戯っぽい輝きを浮かべて子津を見上げている。大道芸人の次の出し物を期待するような眼差しだ。あんまりっす!

「キャ……御門さんはそんなに僕をいじ」
「あっ今キャプテンって言いかけた」
「いいいい言ってないっすっ」
「ダーメ。 もう知らない。もう子津くんなんて知らない」
「御門さん!御門さん御門さん御門さん!!」
「ダーメ、ダメダメダメ」
「みっ………御門さんのバカ………ッッ!!」
「あ、今バカって言った」
「………言いましたよ」
「子津くんが………僕にバカって言った……」

 それきり牛尾は口を閉ざし、みるみるうちに六月の曇り空みたく今にもどしゃぶりの気配の顔になっていった。見ていて可哀想なくらい、子津は思いきり動揺した。なぜ、泣く! 引っ込んでいた半泣きの子津の涙もそろそろ表に出かけている。どうしようもう打つ手がない。御門さんを泣かせてしまった。こっちも泣きそうだ。牛尾が鼻声で言った。

「どうして子津くんも半泣きなんだい」
「御門さんが泣いてるからっす」
「なんで僕は泣いてるの」
「……えと。僕が御門さんにバカって言ったからっす」

 珍妙な会話だなぁと思ったが、この人は多分本当に忘れちゃったんだろうなと子津は素直に答えた。

「嫌いって意味かい?」
「違うっす!僕は御門さんの事」
「ストップ。それ以上は言わないでくれ。……嫌いじゃないんだよね」
「そうっす!」

 子津はふと牛尾に違和感を覚えた。が、言わないでと言われれば黙るしかない。

「………ホント?」
「ホントっす」

 子津は今度こそ反撃出来ないように、こればかりは本心なんだと、間髪入れず返した。

「ホントにホント?」
「ホントにホントっす」
「ホントにホントにホント?」
「ホントにホントにホントっす」
「ホントにホントにホントにホント?」
「ホントにホントにホントにホントっす!!」

 子津はホントホントとまくしたてて肩で息をしている。牛尾は真剣な顔になって言った。

「じゃあ、抱いて」

 子津はがくりと頭を垂れた。



 子津はもともと、好奇心が旺盛というわけでもなく、好きな人が出来て両想いになったんだーヤッターじゃあいっちょやってみよう! なんていう思考にはならない性質なのだ。もちろん健全な青少年だからそういう妄想や希望はそれなりにあり、きちんと体は反応もする。だが実際に行動に移すとなれば話は変わる。そういう場合になる時っていうのは、ムードとか時間とかが必要じゃないか。愛っていうものはっすね、こう、やっぱり熟成させてから……子津は健全な青少年のくせにえらく慎重だった。慎重に行こうと思ってそうしている訳ではない。例えば。

 子津は顔を上げて、牛尾を見た。牛尾は自分を相変わらず真剣に見つめたままだ。

 さっきまであんなにギリギリの冗談みたいな会話を繰り返してたのに、この人はいきなりこういう表情になる。僕がどうしていいか判らなくなるのはこんな時で、こんな莫迦な話ってないっすよ、本当に僕はどうしたらいいんすか。僕を困らせるこの人は、僕の前でしかこんな風にならない。

 ………好きだ。

 子津の心はとろけそうなほど熱くなる。それだけだ。子津は強く好きと思う。これほどの感情を揺さぶられる相手を前にして、それだけで満足してしまう。それ以上とか、以下とか、まったく考えられない。

 僕はこの人が好きだ。むちゃくちゃ好きだ。チョーーー好きだ。世界が滅んでも好きだ。野球と同じくらい好きだ。もう救い様のないくらい好きだ。惚れた方の負け、なんて言ったのは誰だ? 最初に好きになったのは御門さんの方じゃないか。好きだ好きだと言われてほだされていって、結果がこれだ。誰の目からも、どっちが勝者かは明らかだ。それでもいい、僕が負けでいい、この人を好きでいられるなら何だっていいんだ。この人がやがて僕の事を好きじゃ無くなったとしても、僕がこの人を好きじゃ無くなるイメージを、僕は持たない。

「何を考えているんだい」

 牛尾が眉を顰めている。子津ははっとして、さぞかし自分はおかしな、笑える顔でいただろうと思う。子津は自嘲してから、そっと言ってみた。

「貴方が好きっす。御門さん」

 牛尾は、瞬きをした。しばらくして、その長い睫毛を伏せた。

 子津も馬鹿ではないから、部室の空気がいっぺんに変わってしまった事を知った。何かが違う。好きな人に好きと言っただけだ。その人は僕の気持ちもとっくに知ってる。お互いの認識をなぞっただけだ。

 沈黙が降りた。子津は一瞬、時が止まっているかのような錯覚を覚えたが、時計の針がかちかちと動いていて、子津はそれで時が動いてはいるんだと認識した。

「あんまり言わないでくれ」

 漸く聞いた牛尾の声は、今まで聞いた事のないような声をしていた。

「……どうしてっすか?」
「おかしくなりそうなんだ。君に、そう言われると」

 牛尾の声は震えた。

「何もかもが信じられなくなる。君が目の前にいる事や、ここが十二支高野球部の部室ということ、僕が今生きていることすら、君にそう言われると、全部本物じゃないような気がしてくる」

 子津は動かなかった。牛尾の次の言葉を待たなければいけないような気がした。

「僕に好きだと言わないでくれ。僕を嘘にしないでくれ。君を嘘にしないでくれ。何も言わないで抱いて欲しいんだ」

 牛尾は、目の前に子津がいるのに、子津に縋らなかった。両手で頭を掴んで、嗚咽を堪えているようだった。

 ああ、この人は、どうしてこんなに、言っちゃいけないかもしれないけど、莫迦な人なんだろう。僕を追い詰めて追い詰めて、箱の中に閉じ込めて、もう逃げられなくした人はこの人自身だっていうのに、この人はまだガムテープかなんかでぐるぐる巻きにしようとしてる? 鉄条網でも巻くつもりをしてる? いや違う、この人は箱そのものが、自分の中にないと思っているんだ。僕はまだまだ自由だと思っているんだ。僕がたとえ箱が存在しなくても逃げる気なんてさらさら起こさないという事を、夢にも思っていないんだ。僕はもう、貴方の傍にいるだけで、どこへだって行けやしない。

 子津は呼吸を整えて、その単語を言った。

「御門さん、貴方が好きっす」
「言わないでくれ!」
「嘘だと思ってるんすか」
「違う!」
「だったら、聞いて下さい。僕を認めて下さい。僕は貴方の事が好きでしょうがない」

 牛尾はしばらくしてから、やめてくれとだけ呟いた。

「やめません。僕はバカだから、これくらいの事しか出来ない。僕は貴方が好きっす、それだけなんだ」
「子津、くん」
「普通に僕といたら、僕は機械みたく貴方に好きだ好きだと言う、それが嫌で、抱いて欲しいなんて言ってたんすね」
「……ごめん……子津くん……」
「謝らなくてもいいっすよ、でも御門さん、間違ってるっすよ。貴方を抱いたりしたら、間違いなく普段の倍、貴方の耳元で僕はその単語を言い続けてしまうっす」

 子津はうつむいた牛尾の両腕を掴み、少し上に向けると、牛尾の顔も子津に見えるようになった。牛尾は泣いていた。

「貴方が好きなんです。」

 染み込ませるように、子津は言った。牛尾は、子津の言葉を反芻するかのように、ゆっくりと瞬きを繰り返した。子津は微笑んで、牛尾の手のひらを自分の頬にあてた。

「僕はここにいるっす。貴方を好きだという僕は、ここにいるっす。あのカレンダーを見て下さい。今日は12月28日、クリスマスが終わってもうすぐお正月っすね。お菓子とジュースを持ち寄って、この前クリスマス会を部員でしたっすよね。覚えてますよね」

 牛尾はこくりと頷いた。子津は微笑んで、今度は自分の手のひらを牛尾の頬にあてた。

「暖かいでしょう? 貴方に触れている僕は、貴方のことが好き。貴方も僕も、ちゃんと存在してるっす」

 ひとつひとつの言葉に、牛尾は次第に反応し始める。その瞳は、確かな光を持って子津を見つめている。

「僕の目を見て下さい。貴方を見ているこの目の持ち主は僕、その僕は貴方が好き。貴方がいま座ってるベンチを触って下さい。確かにありますよね。このベンチは十二支高野球部部室にあるベンチ。そのベンチに貴方は座っていて、貴方の目の前にいる僕は、貴方の事を好きな人間っす。ちゃんとここにいるんす」
「………うん。……うん」
「御門さん……僕は、

貴方が、

好きです。」

「………僕は」

 牛尾は言いたくて堪らないように口に出した。

「僕は、」
「はい」
「………僕は」

 子津は、このまま何分でも何時間でも待つ表情をしている。牛尾はわずかに唇を噛んだ。

「……君が。……そうやって僕を甘やかすから」

「じゃ、甘やかさないです。御門さんが、その言葉を言ってくれるまで」

 牛尾は、何の曇りもない瞳で、今度こそしっかりと子津の目を見て、言った。

「僕は、君の事が好き。」
「……よくできました」

 言うなり、牛尾は子津の首に腕を回して抱き着いた。子津はもう驚かずに牛尾の背中に腕を回して抱き締める。なんてあったかいひとだろう、この人は。牛尾の体温に純粋に感動して、心にさざ波のように広がってゆく牛尾への思いを感じた。僕はこの人以外見なくていい、そう思って目を閉じた。

「知らなかった。好きって言う言葉、……こんなに、こんなに、……こんな気持ちになるんだ」
「でしょ」
「勿体無かったなぁ」

 子津は思わず微笑んだ。

 心底、残念そうに言うのだ、この人は。
 僕はその度に掻き回され、めちゃくちゃにされて、もう元へは戻れない。

「子津くん……」
「何っすか」
「ありがと……」
「……御門さん」

 喋る度にお互いの胸の振動がダイレクトに伝わる。抱き締め合っているという事実に、今更ながら子津の頬は熱を持った。どくどくどくと心臓の音がして、恥ずかしいなと思ったら、それは牛尾も同じだと言う事に気付いた。ええと、あのその、も、もうそろそろ離れようかな? と思ってゆっくりと体を後退させようとすると。

「……御門さん?」

 がっしりと捕まえられている。

「あの」
「子津くん。僕の目を醒ましてくれてありがとう」
「あ、ああああの、はいっす! 恐縮っす! 御門さん、この手はあの……」
「だからね、ここはやっぱり」

 牛尾は至極真面目な顔で宣った。

「抱いて、子津くん」
「何でーーーーー!!!」

 絶叫しながら体を離そうともがく子津を抱き締めて、牛尾はうっとりした表情で囁いた。

「だって、君が好きだって言ってくれると、ホントに嬉しいんだ。君は僕を抱くと普段の倍好きだって言ってくれるんだろう」
「いや!言いましたっすけど!それとこれとは話が」
「違わないよ」
「こっ……………心の準備がぁぁーーーー!!!」

 誰もいないはずの部室から、断末魔の悲鳴が聞こえてきたような気がしたが、寒かったので用務員の人はそのまま帰宅したという。








   僕はもう、貴方がその手を離しても、どこにも行けやしないのです。












(C)Eiko Itary 1998_2002 All rights reserved.