愛玩ベネツィーノの降参哲学

  



 歯に物を着せぬ喋りをする人は、自分のコトを策士だとか腹黒とか笑顔の裏で何を考えているのか判らんとか言う。別に失礼だとは思わない。実際そうなのだ。そうだと自分では分析している。自分はこの上なく計算高く、いつも先のコトを考えて行動して、何をするにも損得勘定が先に働く。喜怒哀楽を覚える場面でも、先を判って行動しているからそれほど思わない。
 そんな僕を。
 メルカート(市場)で野菜を選びながら子津はふと思った。
(子津くん。僕の大事な子津くん)
 胸がじんわりと暖かくなる。こんな言葉を、他に誰が言ってくれるだろうか。大事な子津くん。大事なんだって、ボクのことが。頬が勝手に熱くなるくらいに子津は幸せな気持ちになった。ボクの唯一愛する人。早く帰ってきて欲しい。譫言みたいな愛の言葉を、何千回と聞きたい。





「子・津・くぅ〜〜〜〜んッッッ!!」
「おかえりなさーい」
 がちゃん、バタバタバタバタ、どしーん。全部牛尾の出す効果音である。最初は突進してくる牛尾(洒落じゃない)を受け止めるのに失敗して埃が舞い落ち食器が割れたりする事が多く、せっかく作った夕食がとばっちりを受けて食べられなくなるものもあったが、最近は牛尾が帰ってくる時間と彼の足音を早急に聞き止められる能力を身に付けたので、子津は見事に牛尾を抱きとめた(小さな体で)(それはいいとして)。
「子津くん、ただいまただいま! 淋しかったよ〜!」
「はいはい、淋しかったっすね。今日もちゃんとお仕事してきたっすか?」
「もちろん! 君の為にッッ! チンクエ(5番)隊長にお尻触られたりしたけど君の為に頑張ったよ〜!」
「そうすか、良く頑張ったっすね。今日もみんなに仲良くしてもらったっすか?」
「うん、右側に立つ門番の人からおいしいクッキーを頂いたよ、あとで君にもあげるね。あと身体検査の時にもたもたしてたら、偶然いた法廷のお弟子さんが服を脱ぐのに手伝ってくれたよ」
「そうすか、それは良かったっすね、よしよし」
「子津く〜んv」
 牛尾が幸せそうに子津に抱き着いている間、子津の頭脳はフル回転している。チンクエ隊には連体責任で鉄槌、門番の人にはお礼、法廷の弟子とやらは怪しすぎるというかボクの御門さんに触ってんじゃないっすよ!!というワケで地獄の苦しみを贈呈する計画である。どれもこれも自分がやったと判らず、実際に職場に立つ牛尾には迷惑がまったくかからないという計算尽くで。
 話している間一分とかからず復讐の計画を練り終えた子津は牛尾の顔を両手で挟み込み、音を立ててキスをした。
「さ、おいしいごはんが待ってるっすよ」
「ねっ……子津くん……!」
 言い終えるか言い終えないかのうちに、瞳を潤ませて感激した牛尾のキスの雨嵐を受け止めるのに手一杯だったことは言うまでもない。





「………おいしーい」
 スープの最初の一杯をスプーンで掬い、香りを嗅いでからゆっくりと口に含んで幸せそうに言ったのがこの一言。
「良かった」
 子津は心底嬉しそうににっこりとした。おいしいと言って食べてくれる幸福は、この人だけが運んでくれる。メルカートで吟味した甲斐があった! 一生懸命裏ごしをした甲斐があった! 家に閉じ込められて外に出られるのは買い物の時だけ(これも牛尾に頼み込んで許してもらった)(もちろん口八丁手八丁で言い包めた)という生活でこれしかすることがないといえばそうなのだが、もちろんこのおいしいと言って全部平らげてくれる牛尾の存在がいなけりゃ、いくら暇でも金を積まれてもこんなしち面倒くさい事をするわけがない。
 このカボチャのスープを作る為にどれだけ歩いたか、どれだけ丁寧に裏ごしをしたかなんて、この人が満面の笑みで幸せそうに食べてくれるのを見ているだけでどうでも良くなってくる。だから子津はそういった事を牛尾に言ったことがない。故に牛尾は子津がどれほど能力より上の事をしているか(主に料理で)を知らない。牛尾は子津がもとから料理が上手いと思っている。
「僕は幸せだなぁ。こんなにおいしいごはんを毎日子津くんに作ってもらえて、食べさせてもらえるんだから」
 スープを飲み干して牛尾はしみじみと微笑んだ。子津は嬉しくて、耳が熱くなるのを感じながらスープを飲んだ。うわあ、このボクが赤くなってるっすよ。子津は急いでスープを飲んで立ち上がった。
「さ、メインに行きましょ。今日はオラータ(鯛)の新鮮なやつが手に入ったから、カルパッチョにしてみたっすよ」
「うわあ、凄いな、美味しそう!」





 食後、エスプレッソを静かに啜る牛尾を真向かいでまじまじと眺めながら、眺めている事を悟られないように顔を伏せてカップを持つ。
 綺麗なひとだ。
 睫毛長ーい。ほっぺた白ーい。髪きれーい。
 子津はそれはそれは真剣に鑑賞した。まるでもうすぐ離れていってしまうから、とでもいうように。そうではない。二人はれっきとした恋人同士だ。見ようと思えばいつだって見れる。あとでも見れる。明日でも見れる。トエレッタ(お手洗い)に行ってる間でも見られる(牛尾が許せばの話)。だが子津はそれでも食い入るように見つめる。勿体ないのだ。せっかく一緒にいるんだから! ひとときでも多く御門さんを見たい。機会があればあるぶんだけ見たい。今度いつ見られるんだか判らないんすからね。子津は半ば飢えたように牛尾を見る。ルックでなくウォッチである。
 牛尾がカップから唇を離して、子津を見た。子津はちょっと狼狽えた。牛尾が、とびきりのハンサム顔で微笑んだ。
「エスプレッソより、僕の方が美味しいかい?」
 がぁぁぁん!!
 子津は落としそうになったカップを震える手で支える。か、か、か、かっこいい…。子津の瞳はカップより先に落ちそうなほど開かれている。
 牛尾は音を立てずに、椅子から立ち上がった。ゆっくりとこちらに近付いて来て子津は焦る。牛尾は子津のすぐ隣に座った。子津の肩はびくりと揺れた。
「ほっぺがピンク色になってる」
 牛尾が笑う。くすくすと空気が揺れる。穏やかな、暖かい体温が子津のすぐ近くに存在する。牛尾は緊張して動けない子津の横顔を見る。やがて幸せそうに溜息をついた。
「かわいい子津くん。……大好きだよ」
 ふわりと抱き締められた。
 子津の心臓は、痙攣しそうな程の期待で破裂しそうだった。自分の浅ましさが刺さるように痛い。





 ぶっちゃけて言うと。
 牛尾は、子津の唯一の情人は、恋人になってから今まで一度も子津を抱いていない。自分を子津に抱かせようとしたこともない。ただ愛しそうに抱き締めて、キスをしてくるだけだ。子津はその度に体が溶けてゆく快感を覚え、その他にできる事を無くす。牛尾の腕の中がこの世の全てになる。そうして子津は自分達が本当に恋人同士なのかという疑問を抱けないでいる。
 子津は肌を合わせる事を拒んだ事はない。スキンシップもすべて受け入れて来た。恋人なんだから当然だ、そしてこの先もあるだろうと、稚拙な知識で精一杯シミュレーションをして毎回こうしてソファーベッドで食後のエスプレッソを飲む。牛尾は抱き締めてくる、子津は何も考えられなくなって体中が幸福に満たされる、そして気がつくと朝。牛尾は不能ではない、その証拠に朝起きたての彼を見てしまった時、彼は気付いて照れたように笑って言った、『あはは、見られちゃったね』。子津ももちろん健康な男の身体だ。
 もしかして必要とされていないのだろうかと考えるには、牛尾はあまりにも誠実すぎた。平日はまっすぐ帰ってくる。休日はどこにも行かず子津といる。家に帰る度に、子津に会えた喜びをみっともないくらい素直に表現する。そして、自分を抱き締める度に、こんなにも深く、幸せそうに溜息をつく。牛尾の幸せが、こちらにも伝わってくるのだ。牛尾の溜息で子津は幸せになる。(幸せを与えているのは自分なのに、そのおかげで自分は幸せになる、なんとおかしなことだろう!)
 子津は抱かれたいと思っているわけではない。まして抱きたいとは思わない。牛尾の気持ちの上に自分があるのだ。牛尾なしに自分はない。牛尾が思わないことをあれこれ思うだけでもおこがましい。
 抱き締められながら子津は思った。愛しいひと。世界中でたったひとりのボクの恋人。その気になればもっと綺麗でかっこよくてお金持ちで、心の優しい人を見つける事だって出来ただろうに、よりによってこのボクを捕まえた。まったく人を見る目がないひと。自分は世界中で一番幸せだと思っているひと…。
 子津は額を牛尾の首元にあてて、体重を預けた。
「……子津くん」
「はいっす」
「子津くんね、抱き締めてる時ね、今日初めて僕にもたれ掛かってくれた」
「あ…そ…そうっすね」
「嬉しいな」
 子津は震えた。泣きそうになった。こんなことで、こんなボクが御門さんにもたれかかったくらいで、このひとは。
「嬉しいな……」





 何も考えられないのだ。計算高い自分はどこへ行ったのだろう。頭の良さだけが取り柄だったのに、これではますます価値がない。
 それでも牛尾に取っては自分は必要で、大切なものとして扱ってくれる。
 この人を愛そう。この人に愛されていよう。それがすべて。
 これがボクの降参。一度きりの、変えようのない、ボクの哲学。